・・・意識を取り戻すと、まず耐えられないようなひどい匂いが鼻をついた。
それで、彼は自分が再び冥界に落とされたことを知った。なにか冷たい氷の様なものに体は半ば埋もれ、自由がきかなかった。
「・・・・・・・・・・・」
薄らと目をあけると、見たくも無い薄暗い光が辺りを取り巻いている。
そして、すぐ側に乱れた髪の色が見えた。
「・・・おい」
呼びかけてみたが、返事はない。そこで彼は、凍りかけていた右腕を何とか引き出して、髪をわしづかむなり引っ張った。
「おい。アフロディーテ。・・・・・生きてるか?」
「う・・・・・」
髪の持ち主である魚座のアフロディーテは小さくうめいて、それからようやく覚醒した。
「・・・・・う、あ。デ、デスマスクか・・・・?私のバラは?
ないぞそんなもん。つーか、どうするつもりだバラなんか」
「あれをくわえていなければ落ち着かんのだ・・・!うう、いかん、拒絶反応が」
ヤク中か貴様。どうりで妙な匂いのバラだと思ったが・・・・いい機会だ。ここですっぱり止めるのだな」
「むう・・・。ここはどこだ?」
「冥界だ。ったく、ラダマンティスの野郎、人をゴミ扱いしやがって・・・・動けるか?」
「・・・・フっ・・・どういう意味でだ?話は出来るが、歩けといわれたらこたえてやるわけにはいかんぞ」
 苦く笑ったアフロディーテの顔を見て、デスマスクもつられたように笑みを浮かべた。
「ああ・・・・俺もだ」
 二人は自分達が落ちてきた方向、頭上はるか天を仰いだ。薄い霧が一面に漂う向こうは、深い闇に埋もれていた。
「・・・・・これで私たちは御役御免、というわけだな。ここは冥界のどこだろう」
「さあな、コキュートス辺りじゃねえか?俺達にちょうどいいしな・・・いろんな意味で」
「フッ、違いない」
 神々への反逆者を堕とす場所、コキュートス。
 アテナを殺しかけ、ハーデスを欺いた二人は、ここにやってくる資格においてこれ以上無いほど揃っていた。
「・・・・・・・それはそうと、知らなかったぞデスマスク。君があそこまでの役者だとは」
「うむ。俺も自分でびっくりだ。あと十年生きていたらオスカーは総なめだったな」
「事情を知っている私ですら君が悪者にしか見えなかった。ラダマンティスはもちろんだが、ムウも完全に騙されていたぞ」
「ふん・・・・・これで冥界の奴等の監視もすこしは甘くなっただろう。サガにカミュにシュラなら、まあ、無駄にはしないと思うけどな」
 薄く笑う。
 それからふと思い付いて、デスマスクはアフロディーテを振り返った。
「それにしても、お前もよくこんな汚れ役につきあったな。例の大層な美意識はどうした」
「フッ、愚か者。真の美しさとはたとえどんな場所においても変わらぬもの・・・よく見たまえ。このような退廃極まりない場所でも私は輝いている」
「・・・・・変わらんのは美しさ云々よりその性格だと思うが・・・・」
「悪くあるまい?」
 ぬけぬけとそう言い放つ同僚の顔を、デスマスクは見る。
 血に汚れ、髪も乱れて色褪せて、かつての咲き誇るような花の面影は見る影も無かったが、それでもアフロディーテの瞳は堂々と輝いていた。
 思わず吹き出す。
「・・・・・まあな。悪くはない」
「だろう?君もそれなりに男前にはなってきたぞ。逃げた聖衣の代わりを探すのなら、私がみつくろってやってもいいが」
逃げたいうな・・・・。趣味の悪い白の口紅選ぶような奴の見立てはいらん」
「意地を張るならそれでもいい。ただ、一つ言っておくが、君にその冥衣は全然似合っていないからな」
「やかましい。お前の方こそ、まったく似合っていないぞ。黒なんか」
 二人が軽口を叩く間にも、体は少しずつ冷たい空気に冷やされていった。氷の土の中に、徐々に埋もれてゆく。
 それと同時に、体力も急速に消耗していった。
 やがて、アフロディーテの方が力尽きたようにがっくりと首を落とした。
「!おい!つかまれ!」
「・・・・余計な心配をするな。少し眠くなっただけだ」
「阿呆!今寝たら寝てる間に埋まるし凍るだろうが。手ぇ貸せ、おい・・・・」
 デスマスクが右腕を伸ばすが、アフロディーテは振り向こうともしない。
 ただぐったりと、体を地獄の土に預けている。
 その様子をしばらく見てから、デスマスクは尋ねた。
「・・・・手・・・・・動かないのか?」
「・・・フッ、眠いのだ。だからしばらく寝言を言う。災難だと思ってあきらめて聞いておけ」
 そう言って、アフロディーテはあくまで皮肉に微笑みながら、独り言の様に呟き始めた。
「私は・・・・・ムウが嫌いだ・・・・」
同僚の愚痴かよ!冗談じゃねえぞ、なんでそんな爆弾発言聞かなきゃならんのだ!」
「ムウだけではない・・・・・老師も、青銅聖闘士達も、みんな嫌いだ・・・・・・」
「だからそういう非行少年みたいな発言はよせ!どうしたお前!おい、起きろ・・・・・」
「・・・・君を悪だといった・・・・・・」
「あ!?」
「君を悪だといった。君を・・・・・・・・・恥だと・・・・」
 うつろな彼の声は、まるですすり泣くようにも聞こえる。
「君はこんなところに来なくても良かったのだ・・・・!憎まれ役は私だけで良かったのだ・・・・青銅のガキども、何も知らんくせに・・・何が正義で何が悪かもわからんくせに・・・・っ・・・・!」
「な、なに泣いてんだお前!おいちょっとまて、ヤク切れか!?くそっ、バラは、バラはどこだ!?
「馬鹿者!中毒などではないわ!貴様、13年前を忘れたか!?」
 13年前。
 その言葉に、バラを探して四方八方見回していたデスマスクの目がふととまった。
「13年前・・・・・」
「そうだ。・・・・・・・・青銅は何も知らぬくせに」
 急激に意識を遠のかせながら、アフロディーテはなんとか言葉を絞り出す。
「・・・・・・私は・・・・・覚えているぞ・・・・」
「・・・お、おい。アフロディーテ?おいこらお前、寝るんじゃねえっ!」
 とっさに水色の髪を引っつかんでぐいぐいひっぱるデスマスク。彼の脳裏に、この13年の月日が浮かんだ。
 それはまるで風の様に渦巻きながら、土に埋もれた二人を在りし日まで一気に押し戻していった・・・・


――――――――13年前――――――――

「うるさい、オカマ!」
「オカマじゃない!君の方こそ、なんだそのつぶれた老け顔は!?」
「なんだとこいつっ!」
その頃、デスマスク10才、アフロディーテは9才であった。
やんちゃ&わんぱく盛りの二人は、歳が近いこともあってかいつも一緒に遊んではいたが、ことある毎に喧嘩をするのも日常茶飯事の情景であった。
 ちなみに、同じ歳頃の組としてはあと一人、シュラもいたのだが、彼はこの二人と遊ぶにはちょっと性格が堅すぎたため仲間に入るのはまれだった。
「いたっ!やったな!」
「くそっ!ふざけんなよこのオカマっ!」
 取っ組み合いの喧嘩。
 その仲裁に入る人間も、いつも決まっていた。
「こら。止めないか二人とも」
「うわっ!」
「ぎゃっ!」
 いきなり首根っこを引っつかみ、そのまま二人の額を思い切りゴツンとぶつけさせたのは、
「アイオロス〜っ・・・!」
「まったく・・・暇さえあれば喧嘩をしているなお前達。そんなにお互い嫌いなら、一緒に遊ぶのをやめたらどうだ」
「うるせえなっ!いちいち口出すなよ、バカっ!」
「そうして俺が口を出さずにいて、このあいだ二人揃って瀕死になっていたのはどこのどいつだ。デスマスクはブラッディ・ローズで血ぃ吸われるわ、アフロディーテは黄泉比良坂までとばされるわ・・・・お前にささったバラを抜くのにどれだけ苦労したと思っている。アフロディーテも、あの世から連れ戻してくるのは大変だったのだぞ」
「う・・・・・・」
「とにかく。喧嘩をするのなら一緒にいるのをやめろ。周りに迷惑だろう、わかったか?」
「けっ!」
 ゴン!
「返事が悪い!」
「ってぇ〜・・・・いちいち殴るんじゃねえよ!いわれなくたって、こんな女みたいな奴と二度と一緒に遊んでやらねぇっ!」
「それはこっちの台詞だ!フンッ!」
「やれやれ・・・・」
 溜め息を吐くアイオロス。そこへ、穏やかな顔をしたサガが石段を登って現れた。
「ああ、ここにいたのかアイオロス。・・・・・なんだ?また喧嘩か?」
仏頂面の子供二人を見て、仕方ない奴等だ、と笑う。
「今度は何が原因なのだ?」
「こいつがっ、なんか自分が美人だ美人だうるせえから、アテナの方がよっぽど美人だろうって言ってやったんだ!」
「・・・・・・・それはまたいろんなベクトルでしょうもない喧嘩だな・・・・・」
「サガ!私は美しいだろう!?」
「・・・・・・・・・・・・・・;」
「止めろアフロディーテ。本気で困っている」
「ほら!やっぱりおまえなんかアテナよりずっと不細工なんだぜ!」
「なら君はアテナを見たことがあるのか!?大体、彼女はついこの間生まれたばかりだ!まだ赤子だ!」
「だからそういう仕方の無い喧嘩は止めろと言っているのだ!もう一度殴られたいか!?」
「まあまあアイオロス。喧嘩するほど仲がいいと言うではないか」
 困惑から立ち直って、優しく微笑むサガ。
「それに、この二人はなんだかんだ言ってこじれるようなことにはならんしな。二人とも根は優しい子だ」
 綺麗な瞳でまっすぐに見られながらそう言われると、いかなわんぱく小僧でも照れてしまう。
 デスマスクとアフロディーテは決まり悪げにそっぽをむいた。
 それを見て、サガはおかしそうにクスクスと笑い、それから友人の方へ向き直る。
「それよりアイオロス。教皇が我々をお呼びなのだ。いそいで行った方がいい」
「あ、ああ。何の用だろうな。おいおまえら。俺達のいない間、悪さするんじゃないぞ」
 立ち去りながらも、釘をさすのを忘れないアイオロスだった。
 二人が喧嘩をすると、いつも彼が止めに来てくれる。そしてあんまりひどく怒られると、それはその時で決まってサガがとりなしてくれる。

 こんな日が、いつまでも続くものと信じて疑わなかったのだ。
 この時までは。

 
 その夜。デスマスクは寝付けなかった。
 巨蟹宮は双児宮の隣にある。口には出さないが、一番隅の宮を受け持っているアフロディーテがこの位置関係を内心非常に羨ましがっていることをデスマスクは知っていた。これで反対側の隣がアイオロスなら言うこと無しだったのだが、惜しいところで獅子宮は弟の方のアイオリアの持ち場所だった。
 しかし今夜、サガの気配は双児宮から消えていた。
「・・・・・・どこ行ったんだあいつ・・・・」
 彼が留守にするのは別に珍しいことでもなかった。何と言っても巷では「神の化身」と呼ばれている男だ。西に病人ありと聞けば一晩中介抱に行ってしまうこともよくある。
 だが、デスマスクは今日に限って気になった。
 夕方、教皇の呼び出しから帰ってきたサガが巨蟹宮を抜けていった時、その顔色が真っ青だったのだ。
 大丈夫かとたずねたデスマスクに、彼は微笑み返しもせず気にするなとこたえた。声が、いつものサガの物とは思われぬほど暗かった。
 
 一体、教皇は彼に何を言ったのだろう・・・

 デスマスクは教皇をよく知らなかった。顔はフルメットで覆われているし、とにかく聖域一の絶対権力者であると言うこと以外は何も知らない。とくに親しく接触するような機会も無かった。
 そして、知らないと言えばもう一つ、彼はアテナを見たことも無い。先日この地上に降臨され、今は神殿に寝かされていると言うが、一度も会ったことが無いのだ。そのせいで、今日のアフロディーテとの喧嘩はちょっと迫力に欠けた。
 見たことがあれば、あのオカマ野郎にも「見た」と胸を張っていえるのに。
 脱線した考えは急に熱くなっていく。ちょっとぐらい、見にいったって構わないんじゃないか?自分だってアテナを守る黄金聖闘士の一人だ。どんな人を守るのかちゃんと見ておきたいではないか。本当にアフロディーテより美人になりそうなら、守りがいもあると言うものだ。
 こうなると、双児宮にサガがいないと言うのは絶好の機会であった。もしいたら、小宇宙を追って咎められてしまうだろう。
問題は途中のアイオロスだが・・・・何か聞かれたらアフロディーテのところに行くのだとでも言っておけばいいだろう。
 そこまで考えて自信をつけたデスマスクは、闇の中、こっそり寝台を抜け出し、巨蟹宮を出た。

 獅子宮のアイオリアはぐっすり寝付いており、処女宮のシャカは寝ているのかいないのかよくわからなかったが、特に声をかけてくるようなことはなかった。天秤宮は無人の宮だ。老師というこれまた名前しか聞いたことの無い人が担当しているらしいのだが、どこにいるのかさっぱりわからない。大体、「老師」は名前じゃないだろう。
 天蠍宮のミロは完全熟睡型の人間なので通り抜けるのに心配はいらなかった。
 デスマスクが引っかかったのは、やはり当初の予定通り人馬宮である。
「・・・・・・・(そ〜っと)」
「こら」
 抜き足差し足でこっそり抜けていこうとしたところを、住人にいきなり後ろからふんづかまえられてしまったのだ。
「いてっ、てっ、何すんだよはなせ!」
「何してるんだはこっちの台詞だ。こんな夜中に・・・まーたなんか悪さをしに行く気だな?」
 あきれたように、しかし面白がってもいるようにアイオロスが言う。
「ちっげえよっ!俺は・・・・そのっ!アフロディーテのとこに行くとこなんだよ!」
「アフロディーテ?お前らもう仲直りしたのか?ったく、相変わらずだな。いちいち仲直りするのなら、はなからケンカなどしなければいいのに・・・・」
「な、仲直りなんかしてねえよっ!俺、あいつ嫌いだもん!」
「仲直りしてない?なるほど、これからしに行くところか。ははあ、お前さてはまた、喧嘩の後で一人でベソベソ泣いてたんだな?」
「泣いてねえよ!」
「強がるな。サガも俺もちゃーんと知ってるんだからな。お前、この聖域ではカミュと同じぐらいによく泣くではないか」
「ふざっけんな!あんなチビのガキの、ミロがいなきゃ何も出来ない泣き虫と一緒にすんな!」
「俺から見ればお前も十分ガキだ。・・・・・まあいい。とにかく、仲直りなら早く済ませてさっさと寝るんだぞ」
「だから仲直りじゃねえって!」
 言い張るデスマスクに、こんどはあえて否定をせず、アイオロスはにっこり笑って軽く頭を叩いてくれた。
 完全に子供扱いされている。が、それが決して不愉快ではない。
 アイオロスの大きな手がこうして元気付けてくれる時、デスマスクは心の底で、こんな兄を持ったアイオリアが羨ましくてたまらなくなる。
「じゃあなっ!」
「あ、デスマスク」
 あくまでふて腐れたフリを装って出て行こうとすると、今度はふと真面目な口調でアイオロスがたずねた。
「サガのコスモが双児宮から消えているが、おまえは隣の宮だったな。あいつがどこへ行ったか知らないか?」
 デスマスクは知らないとこたえた。
 本当に知らなかったから。
 でも、もしこの時、自分が何かもっと気のきいたことを言えて、アイオロスと二人でサガを探しに行っていたら・・・・
 そうしたら、翌日からまた、ずっとずっと優しい日々が続いていたのかもしれなかった。
「・・・そうか。ならいいのだ。邪魔したな」
 どこか気がかりそうにあいまいに微笑んだアイオロスを後にして、デスマスクは人馬宮を抜けたのだった。

 魔羯宮と宝瓶宮までは調子良く進んだデスマスク。しかし最後の最後、よりによってアフロディーテの双魚宮まで来たところで、先の宝瓶宮のあまりの寒さに水っ洟になってしまっていたためか、派手なくしゃみをしてしまったのだった。
「だれだ!?」
 奥からおどろいた声がし、次の瞬間にはバラを片手に臨戦態勢のアフロディーテが目の前に立ちふさがっていた。
 かれは友人の顔を見ると、やや毒気を抜かれた様子で、
「なんだ、君か。何しに来たんだ?」
「いや、別に・・・・ちょっと教皇に用があってよ・・・」
 もごもごととっさの言い訳をするデスマスク。それに対して、アフロディーテは意外なことを言った。
「教皇?あの方なら、今は留守にしているぞ?」
「なんだと?」
「気づかなかったのか?もう大分前に下っていかれた。多分、スターヒルにでもお行きになったのだろうが・・・」
 教皇が行ったのがどこであろうと、それはこの上なくいいタイミングだった。こっそりアテナを見に行くのなら、チャンスは今しかない。
「あ、じゃあ俺、上で帰ってくるの待つわ!」
「?おい、デスマスク?おい・・・!」
 寝覚めで敵対心も消え失せてしまっているらしいアフロディーテが呼び止めるのも聞かず、デスマスクは一目散に双魚宮を抜けて階段を駆け上がっていった。

 教皇の間を抜けると、そこがアテナ神殿だ。
 神殿に入る時、さすがに少年も緊張した。
「しつれい・・・しま〜す・・・」
 答える人などいないことはわかっていたが、それでも一応断りを入れる。
 探すまでもなく、アテナの居場所はすぐに分かった。神殿の一番奥の、ゆりかごの中にくるまれて眠っていた。
「・・・・これが、アテナ?」
 初めて見た女神の姿は、幼いデスマスクの腕にさえすっぽり納まってしまうほど小さく、頼りの無い赤ん坊だった。
 確かに可愛い顔をしてはいるが、アフロディーテより美人かどうか等と言う問題のレベルではない。
「ふうん・・・」
 なんとなくうなってよくよく覗き込んで、やがてデスマスクは飽きてしまった。
 なんだ。よく寝ている、普通の赤ん坊だ。
 これだったら、生まれてすぐに七歩歩いたシャカの方がなんだかすごい。
 帰ろう。
 そう思って戻りかけた時だった。
「!?」
 神殿に、人の気配が入ってくるのを感じた。
 誰かがここにやってきた。そしてこちらへ向かってくる。
「やべっ・・・!」
 こっそり侵入したのが見つかってはとんでもないことになる。デスマスクはとっさに、柱の影に身を潜めた。
 その直後、妙に急いた足音ともに姿をあらわしたのは・・・
「・・・・教皇・・・?」
 聖域の最高責任者、教皇。デスマスクの緊張はピークに達した。もしここにいるのが見つかったら、一体どんな罰を受けるだろうか。これなら二三発殴られたってアイオロスに見つかった方がマシだ。
 息を殺した。
 だが、その彼の息よりもずっとひどい呼吸音を、他の誰でもない教皇自身が発しているのに気づいた。
 はあ・・・はあ・・・はあ、はあ、はあ・・・・
「・・・・・・?」
 何か具合でも悪いのだろうかと、恐る恐るデスマスクが片目半分覗かせたその時だった。
「!!」
 彼は見た。教皇が、金色の短剣を振り上げる様を。
 刃の先は、真っ直ぐに幼いアテナの心臓を狙っていた。


 デスマスクがなんだか怪しく慌ただしく飛び出していったあと、アフロディーテはすっかり目がさえてしまった。
「なんだ、あいつは・・・」
 ベッドに潜り直すが、どうにも寝られない。
 何度も寝返りをうちなおし、ようやくとろとろと眠りかけたところで、こんどは急ぎの足音に睡眠を妨害された。
 教皇が戻ってきたのだな、とはわかったが、せっかく眠れそうだったところを邪魔されたせいでむかっ腹が立ち、あくまで狸寝入りを決め込んでやった。
 それから小半時・・・・・・
「・・・・・ぃーて!アフロディーテっ・・・・!!」
 三度目の妨害はひどかった。
「起きろ!起きてくれよ!アフロディーテっ!」
 ヒソヒソ声の範囲内でできる限りに叫んでいるその声には嫌と言うほど聞き覚えがあった。
「・・・また君か、デスマスク・・・・いたっ、揺さぶるなっ」
 あんまり肩をガクガクさせて揺り起こされるので、アフロディーテは気分も最悪に起き上がった。
「今度は何・・・・・」
 うっとうしげに髪を掻きあげて、友人の顔を一目見るなりその後の言葉を飲み込んだ。
 デスマスクは、夜目にもわかるほど真っ青な顔をして、そして目に涙を溜めて震えていた。
「ど、どうしたんだ?何かあったのか?」
「アフロディーテっ・・・・教皇が・・・・教皇がアテナを・・・・アイオロスがっ!」
「落ち着いてくれ!デスマスク、しっかりしろっ!」
 今度は逆に肩をつかんで揺さぶってやる。
 二度ほど空気を飲み込んで、デスマスクはようやく少し落ち着いた。それでも、震えは止まっていなかったし、顔色もよくはならなかったが。
「何があったんだ?君はどこへ行ってきたんだ?」
「俺・・・・アテナ神殿に行ってきたんだ。アテナを見に・・・」
「何だって!?無断でか!?ずるいぞどうして私も誘わなかった!
「そんなことはどうでもいいんだよっ!大変なことが起こって・・・!アイオロスが殺されるかもしれない!」
「は!?どういうことだ、一体!」
 デスマスクは全てを話した。
 自分がこっそりアテナ神殿に入り込んで、ゆりかごに眠るアテナを見てしまったこと。教皇が入ってきたので、柱の陰に隠れたこと。金の短剣で、殺されかけたアテナのこと。
 そして、間一髪で駆けつけたアイオロスがそれを止めたこと。・・・・
「ほ、本当なのかデスマスク!?そんなことが・・・・」
「嘘だったらどんなにいいかわかりゃしねえっ!」
「なら他の黄金聖闘士達にすぐに報せるべきだろう!急いで下へ・・・」
 ベッドから飛び出そうとするアフロディーテ。
 しかし、その手はデスマスクにがっちりと押さえられた。
「どうしたんだ。急ぐぞ!」
「・・・・・・・・駄目だ。アフロディーテ、駄目だっ・・・!」
 振り返ると、苦悩でぐしゃぐしゃに歪んだ友人の顔がこっちを見上げていた。
 彼はかすれた声で、言った。
「あれ・・・・・サガなんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんだって?」
「サガなんだ。アイオロスが殴った瞬間、教皇のマスクが取れて顔が見えた。髪の色も目の色も変わってたけど、あれはサガなんだ!俺にはわかるんだ!サガなんだよっ!!」
 絶句しているアフロディーテの夜着の袖を、きつく握り締めて、デスマスクは血を吐くようにきいた。
「どうしてなんだ・・・?どうしてサガがアテナを殺そうとして・・・アイオロスまで殺そうとしたんだ?どうしてサガなんだよ!あいつどうしちまったんだよぉっ!!」
 その時、上から招集を叫ぶ「教皇」の声が聞こえてきた。・・・・

 それから後はあっという間だった。
 「アテナに謀反を働いた」かどで、逃げたアイオロスを追うように「教皇」は言った。追って、殺せと。
 聖域中がアイオロスを犯罪者だと叫び、その行方を探った。
 アサシンの役を任されたシュラがすぐに聖域を発ち、夜が明けていく。
 誰も本当のことを知らなかった。「教皇」と、そして二人の少年以外は、誰も。
「どうしよう、デスマスク。シュラが、アイオロスを・・・・!」
 双魚宮で血の気の引いた顔を見合わせながら、二人は話し合った。
「アイオロスがシュラなんかにやられるはずが無いだろ!」
「でも、周りはみんな敵だ!」
「大丈夫さ、きっと・・・」
「そう、どうして言いきれる?」
今はアフロディーテも泣きそうだった。
 その様子を見て、デスマスクは唇をかんでしばしうつむいていたが、やがて強く言ったのだ。
「俺、シュラを追いかけてくる。そんで、本当のことはなして止めてくる!」
「できるのか!?」
「やるんだよ絶対!」
 そして聖域を発った。シュラの後を追って。

 ・・・・アイオロスの最期を、デスマスクは今でもはっきり思い出すことが出来た。
 彼を見つけた時にはすでに闘いは始まっていた。アイオロスが拳を構え、シュラの研ぎ澄まされた腕がアイオロスに狙いを定めたのが見えた。
 力ずくで止めるには到底間に合わない距離で、せめて叫んで何とかしようとしたのだ。
 それなのに、干上がった喉からは声が出なかった。
 シュラの腕が振り下ろされるより一瞬早く、アイオロスの拳が動いた。
 ああ、アイオロスの勝ちだ。そう思った瞬間・・・・
 その拳が止まった。
 シュラの前に、無邪気に出てきた赤ん坊を見て、「犯罪者」は凍り付いていた。
 ――――――――アテナ――――――――
 そして、血しぶきが上がった。

 デスマスクはその一部始終を、離れた場所から茫然と見ているしかなかった。
 倒れていくアイオロスと、血に染まった空気を、ただただ茫然と、茫然と見ているしかなかったのだ。


 聖域に帰ってくると、アフロディーテは巨蟹宮で待っていた。
 デスマスクの姿を見るなり飛び出してきたが、一目で全てを察したらしかった。
「・・・・・・・・・・デスマスク」
「・・・・・・・・・・・・・」
「泣いたら駄目だ。泣いたら・・・・・他の奴等に気づかれる」
「・・・・・・・・・・・・・・う・・・・」
 だが、涙はどうしようもなく流れた。
 アフロディーテが見守る前で、彼は膝をついて声も無く泣いた。
 友人の手が、優しく背をなでてくれた。
 何時も彼が泣いていた時、アイオロスがしてくれたように。
「デスマスク。仲直りしよう」
 アフロディーテが言った。
「喧嘩ばっかりしていたら、あの世でアイオロスが心配する。だからもう、喧嘩はしないと誓おう」
「・・・・・・・・・・・・ああ」
 二人は約束した。
 ついでに、デスマスクはもう絶対に泣かないことも誓った。
 それだって、きっとアイオロスが心配するに違いないと思ったから。

 それから数週間、二人は遊ぶ元気も無く過ごした。これは別に二人に限ったことじゃなく、聖域全体が「アイオロスの謀反」にショックを受けていて暗くなっていたのだが、二人にはもう一つ別に、考えずにいられないことがあった。
 サガはどうなるのか。
 教皇の服に身を包み、あのマスクをかぶっている彼はどうなるのか。もう二度と、「サガ」はもどって来ないのか。
 現に双児宮はあの日以来無人となっている。
 アイオロスのみならず、サガまで失ってしまうのは、もう耐えられなかった。
 一体、誰のせいでこうなったのだろう・・・・・・
 誰がそもそもの元凶なのだ?誰のせいで、誰のせいでこんなにも日々が狂ってしまったのだ?
「・・・・・・・アテナのせいだ」
 ある日、デスマスクは言った。
 アフロディーテは黙ってそれを聞いている。
「アテナが・・・・アテナなんかが生まれてきたから、サガはおかしくなったんだ。アテナさえいなければアイオロスも死なないですんだんだ。アイオロスが殺されたって、アテナは何にもしてくれないじゃねえか!何が女神だよ!何がアテナだよっ!」
 握りこぶしで壁を叩きつけて叫んだ。
 聖域の人間はほとんど全て、神殿にアテナがいるのだと信じていたが、二人は真実を知っていた。
 アテナはここにはいない。アイオロスが、命を懸けて逃がしたから。
「・・・・・・・二度と帰ってこなけりゃいいんだ・・・・・アテナなんて・・・・」
 二人とも、心の底からそう思った。

 それから更に数日後。
 巨蟹宮で相変わらず膝を突きあわせていた二人は、町の様子を見に下ってきた「教皇」に会った。
「・・・・・・・・・」
 これはサガだ。そう考えて、二人とも凍り付いたように彼を見上げた。
 ・・・・・・だが、本当にサガなのか?
 教皇になりかわり、アイオロスを殺したこの男が、本当にあの優しかったサガなのか?
 事件の、デスマスクが見たのはただの見間違えで、これは本当にもともといた「教皇」なのではないのか?
 サガは・・・・・サガはもう二度と、もどって来ないのではないのか・・・・?
 疑惑が急に膨れ上がったその時だった。
 教皇が、ぽつりと一言、呟いた。
「・・・・二人とも、もう喧嘩はしないのだな」
 そして、振り向かずに去っていった。
 残された二人の子供は、その後ろ姿を食い入るように見詰めていた。
 その目には世界中がぼやけて見えていたが、泣かないように懸命にこらえた。
 サガはいるのだ。間違いなく、サガはここにいるのだ。
 彼に何があったかはわからないが、今一番苦しんでいるのはサガなのだ。
「・・・・アフロディーテ」
「なんだ」
「俺、ここで待つからな。いつか絶対絶対、サガは双児宮に戻ってくんだ。俺、ここからずっと見張ってる。そして、もどってきたらきっと一番最初にお前に報せてやるからな!」
「ああ・・・!」
 そうだ。サガはきっと戻ってくる。また優しく微笑んで戻ってくる。
 それまでは、せめて彼の苦しみを少しでも取り除いてやろう。「教皇」にも出来る限り協力するのだ。これ以上彼が悲しまないように。
 二人は新たな誓いを立てた。
 そして13年という長い月日を、ずっとずっと、待っていた。
 
        ×                          ×                            ×


「おい、こらアフロディーテっ!死ぬんじゃねーぞおいっ!!」
 コキュートスの空気は冷たさを増していた。
 つかんだ友人の髪の一本一本までも、今は凍り付いて霜がはっている。
 アフロディーテの声は、もはや消え逝く寸前の灯火のようだった。
「・・・・・・・・・君は・・・・・・・君の正義があったのだ・・・・・・・・・・・何もしらんくせに・・・・・・・何も・・・・・・・・・・・」
「いいからもうその話は止めろ!!しっかりしろっつてんだよ!!」
「・・・・・・・・・私は、少しは君の役に・・・・・・・・たてたか・・・・・・・」
「何言ってんだ!役に立つも立たないもねえだろうが!ずっと・・・・・一緒にやってきたんだから・・・・!!」
 デスマスクの声が震えたのをきいて、友人の顔はわずかに歪んだ。
 笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「・・・・・・・今度は・・・・・・最期まで見ていてやれんな・・・」
 最期に吐き出す息と一緒に、呟いた。
「・・・・・・・・・・すまん・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・おい。おい、おい、おいっ。おいっ!アフロディーテっ!!」
 もう一度髪を引っ張ろうとして、デスマスクは気づいた。
 すでに自分の腕も、完全に凍り付いてしまっていることに。
「・・・・・・・・・・・・・ちきしょう・・・・」
 結局、自分は誰一人助けられなかったのだ。
 アイオロスも。サガも。アテナも。そして今、こんなにも目の前で死んでいこうとしている友人でさえ、助けられないで終わるのだ。
「ちきしょう・・・・ちきしょうっ・・・ちきしょう、ちきしょう、ちきしょうっ・・・!!」
 噛み締めた唇ににじむ血が、その場で凍りついていく。
「ちきしょおおおおおおおおおーーーーっっっ!!!!」
男の慟哭は、凍てついた地獄の隅々まで響いて、消えていった。


――――――――エピローグ――――――――

 ・・・・体が何か温かいものに包まれて宙を飛んでいた。
「気がついたか?」
「!!」
 耳のすぐ側の軽い口調に振り向けば、そこに笑みを浮かべている眼が見えた。
  あんなにも会いたかった、アイオロスの顔が。
「ア・・・・・・アイオロス・・・・!?どうして・・・・!」
「俺だけじゃないぞ、ほら」
 言って彼が顎で示したのは、デスマスクの反対側に抱えられているアフロディーテの姿だった。彼も気がついたばかりらしく、半ば放心状態でぽかんとアイオロスの顔を見ている。
「な、なんだ?俺達、死んでんのか?生きてんのか?」
「混乱するな。立派に死んでいる。今の俺達は魂だけの状態だ」
「た、魂・・・・それでアイオロス、なぜあなたがここに・・・・?」
「お前達の力が要るんでな。借りに来た」
 そう端的に言われても理解しがたい物がある。二人は詳しい話を促すべくそろって彼を注視した。
 アイオロスは苦笑する。
「そうじろじろ見るな。これから、嘆きの壁を壊しに行くんだよ」
「嘆きの壁?」
「そうだ。星矢達が困っている。俺達黄金聖闘士全員の力をもってかからないと無理なのだ」
「・・・・・・俺は聖衣に捨てられた聖闘士なんだが」
「その聖衣が今、お前を呼んでいるのだ。それに私はお前を連れて行くぞ。他に心当たりは金輪際無いからな」
 心のこもった言葉だった。
「・・・・・・・・・・」
 デスマスクの胸の内に、熱い何かが込み上げてきた。13年間に積もり積もったそれは、透き通った水滴となって彼の両眼から溢れ出した。
 「反逆者」であり「悪」である自分を、アイオロス自身が迎えに来てくれた。
 それで、十分だ。
「おい、なんだお前。まだその泣きぐせが治らんのか。一体いくつになった、おい」
「アイオロス。泣かせてやってくれ。彼はこの13年間・・・」
一度も泣かなかったから。
「っ、うるせえぞアフロディーテっ。余計な事言うんじゃねえ!」
「余計な事?ことあるごとに余計な面倒起こして友人に迷惑ばかりかけていたのはどこのどいつだ!」
「お前の方こそそのバラで聖域中を窒息させた事があったろうが!」
「う、おぼえてないっ!」
「大体おまえはなあ!」
「そういう君こそ!」
「あーっ、もうお前らいい加減にしろよ!再会したとたんにケンカを止めなきゃならん俺の身にもなれ!そんなに殴られたいのか!?この先で、サガも待っているんだぞ」
 サガ。
 この言葉に、二人の言い争いがぴたりと止んだ。
 アイオロスが微笑して言う。
「お前達にひどく詫びていた。長い間待たせてすまなかった、とな」
「・・・・・・・・」
 ・・・・・・帰って来たのだ。彼も。
 13年を経て、ようやく自分達の元へ。
「・・・よしわかった。それならいままでたまりにたまった君の悪行、全て彼に告げ口してやる!どうだ!」
「ふざけんなよ、魚!そんなことしやがったらてめえが夜な夜な鏡のまえで何してたか全部バラすからな!」
「あっ!君、それでも友達か!?」
「その言葉そっくり返すぞ馬鹿野郎!」
「だからお前ら止めろって!!」
 ・・・・・・数十分後、彼らは嘆きの壁の前で、今度こそ本当に消滅する。
 だがその刹那の時まで、彼らの胸の内に、13年分の喜びが包まれていたことを、他の誰も知らない。

END








*このページに掲載されているイラストはPrin様より頂いたものです。持ち出しは断じて厳禁であります。


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