「・・・なるほど、よくわかった」
と、ジークフリートが言った。
「どうやら俺とお前は本質的に相容れぬようだ。今までは良き友だと思っていたが、今日を限りに袂を分かつとしよう」
「ああ異論は無い」
と、ハーゲンも言った。
「俺もお前を買いかぶりすぎていたぜ。その事がはっきりわかった以上、二度と口をききたくも無い」
「それはこちらの台詞だ」
「俺が言ったのだから俺の台詞だ」
二人ははったと睨みあった。
ここは盛夏でも涼しいアスガルド。現在は6月。遅い春がようやく来たばかりといったところで、一般市街地も肌寒いが日の差し込まないワルハラ宮の内部回廊はさらに輪をかけて寒い。この宮殿はかなり標高差のある場所に建てられているのでその分も寒い。
彼らはそんなクソ寒い空気をまだまだ冷たく、氷点下まで下げる勢いで睨みあっているのである。
両者ともその場から動かない。ほんのわずかでも退けば負けだというように。そしてまた一寸でも前に進めばかつてない戦いの火蓋が切って落とされるのだというように。廊下の向こうの暗がりから背筋を震わす風が吹いてきても、どこからともなく迷い込んだ蜂が羽音をうならせながら耳元を掠めても、お前ら邪魔な位置に立ってんじゃねーよとあからさまに迷惑な顔をしたアルベリッヒが横を通り過ぎても、彼らは動かなかった。
だが。
「ジークフリート」
「ハーゲン!」
突然宮の奥から飛んできた二つの声が両者に動揺をもたらした。
ジークフリートがはっと視線を上げ、ハーゲンが素早く振り返った。その間に、声の主は柔らかい足音を急かせながら駆け寄ってきていた。
「ヒルダ様・・・」
「フレア様」
「どういうこと、ハーゲン!」
二人の前に辿り着くなり、大きな眼を見張って早口に問いかけたのは金髪の華やかな少女、フレアである。
「貴方とジークフリートが喧嘩をしてるなんて!ワルハラ宮用務員のおじさんがゴミ出しの途中で見つけて報告してくれたのよ。一体どうしたというの?っていうかアルベリッヒがあそこにいるけどあの人が原因なの?そうね?ちょっとアルベリッヒ!待ちなさい!こっちへ来て事情を説明して!」
「お、俺は何も知らん!ただ図書室で調べ物した帰りに通りすがっただけだ!」
「うそ!うろたえてるもの!怪しいわ!」
「いきなりわけのわからん濡れ衣を着せられてうろたえない奴がいるか!?俺は無関係だ!」
「いいから来て!」
「フレア。落ち着きなさい」
穏やかな声が割って入った。清廉を絵に描いたようなアスガルドの統治者ヒルダが、あくまで美しい苦笑を口の端に浮かべて妹をいさめたのだ。
彼女はお詫びの視線を冤罪をぶっかけられた被告へ向ける。
「アルベリッヒは無関係だと言っているではありませんか。強引な物言いをして彼を困らせてはなりません。きちんとお願いしましょう。アルベリッヒ、申し訳ありませんが、ちょっとこちらへ来て下さい」
「言わんとすることは同じだろうが!!丁寧口調になった分、貴様の方が慇懃無礼でムカつく!!人を諸悪の根源扱いするな!!」
「そんな、私は決してそのような・・・」
悲しそうな顔をするヒルダ。を見て額に青筋を浮かべるジークフリート。
「アルベリッヒ!ヒルダ様に対して何という口のききようだ!黙って聞いていれば調子に乗りおって!」
「やかましいわ!というか貴様こそ黙って聞いとらんで俺の無実を証言しろよ!!」
「お前のために弄してやる言などない!」
「・・・ぶっ殺されたいか・・・?くそっ、もういい!こんなふざけた国など、今すぐ出て行ってやる!」
「ま、待って下さい」
近寄るどころか半永久的に遠ざかろうとしたアルベリッヒに、慌ててヒルダが駆け寄った。
「申し訳ありません、私の言いようが悪かったのですね。どうか出て行くなどと言わずにここにいて下さい」
「居たところでこちらにとって何一つメリットがないのでね。今さら俺を頼りにするつもりもないでしょう?ヒルダ様」
フン、と燃える赤髪を振ってあざける様に青年は言う。その様子がますます癇に障ったか、ジークフリートが険しい顔をして一歩踏み出す。
と、そこで。
「・・・ねえ、ハーゲン」
フレアがちょちょっとハーゲンの服の裾を引っ張りながらきいた。
「何だかアルベリッヒの方に話がずれてしまっているけど・・・まあずらしたのは私なんだけど・・・要するに貴方が話してくれればいいのよね。どうしてジークフリートと喧嘩をしていたの?」
ぴた。
問われたハーゲンと、問いが耳に入ったジークフリートの動きが止まった。
ややあって。
「・・・お答えいたしかねます」
「ハーゲン!」
「フレア様、これは私とジークフリートの問題。言うなれば男としての問題なのです。貴方のお耳を汚す必要もないでしょう」
「でも・・・」
「ジークフリート、貴方も話してはくれないのですか?」
「・・・申し訳ありませんが」
フレアへの回答を拒否するハーゲン。ヒルダの頼みを断るジークフリート。
アスガルドの氷山が100%崩壊し、全世界が洪水に飲まれ、陸地が消滅したにもかかわらずなぜかダンゴムシだけが生き残っている・・・そんな天変地異が起こりかねないほど前代未聞の事態である。
姉妹は顔を見合わせた。
「ヒルダ様。フレア様。私達の事はお気になさらず、どうかお部屋へお戻り下さい。私とハーゲンの間の絆が断たれた。ただそれだけの事です」
「そんな。ジークフリート、いけません。あんなにお互いに信頼のあった貴方達ではありませんか」
「その信頼がなくなってしまった以上、仕方ないのです」
「ジークフリート。一体何が・・・」
言いかけて。
ヒルダははっと何か思いついたようだった。繊細な指を胸の前に組み、半ば必死とも言える姿勢で身を乗り出す。
瞳には一抹の希望が覗いていた。彼女は懸命に訴えた。
「わかりました。私達に話せないというのならそれでも良いでしょう。でも、アルベリッヒになら話せるでしょう?」
「・・・・え?」
「男の方の問題だとハーゲンは言いましたもの。私達が女の身だということによって話せないのでしたら、男性であるアルベリッヒに話してくださいな」
・・・・・・・・・・
「おい待てこら何勝手な事を言って」
「ナイスアイデアだわお姉様!!」
反論をぶちまけようとしたアルベリッヒの声をさえぎってフレアが歓声を上げた。少々わざとらしいほどに。
「アルベリッヒといえばアスガルド随一の頭脳を持つ秀才ですもの!天才ですもの!自分でそう言ってるのだから、まさか凡人二人の諍いの一つや二つ解決できないわけが無いわ!当然なんとかしてくれるはずよ!そうでしょうアルベリッヒ?」
「うっ・・・・いや俺は」
「いつももったいないくらいに頼りになる公約をしてくれているのだもの。喧嘩の仲裁なんて貴方にとっては児戯に等しいお仕事でしょうけれど、お願いよ。そんなに時間も手間もかからないでしょう?」
フレアは実に無邪気に熱心に言っているが、直訳するとこれは「普段から散々大口叩いてるんだからこの程度の事はあっという間に解決できるわよね?つーかしろよ」ということである。
アルベリッヒにもそこの所はちゃんと通じた。今すぐ灰になるまで焼き尽くしてやりたいぐらいの目をしてフレアを睨んでいるが、最早反論はできなかった。
そうして無関係の人間を一人きっちり巻き込んでから、続いて声を上げようとしたジークフリートを先んじて、少女は釘を差す。
「ジークフリートも。お姉様が争いごとを嫌っていらっしゃるのは百も承知でしょう?ましてやハーゲンと絶交だなんて。もっと良く話し合うべきだわ。歩み寄ることができないなら、平和を愛するお姉様の騎士でいる資格はありません。違う?」
「うっ・・・・」
弱いところをつかれ、アルベリッヒと同じく喉をつまらせるジークフリート。
最後にフレアは、今までの二人よりはよほど親しい仲のハーゲンに、短く完結かつストレートに告げた。
「知り合い同士がぎすぎすしてるのは鬱陶しいから仲直りできないなら国から出て行ってちょうだい。以上」
・・・・・・・・・・・・
「・・・なぜ俺だけオブラートが一ミリも無・・・」
「わかった!?」
「・・・はい」
こうして、ヒルダの説得のおかげというよりはフレアの脅迫のために、男達は円満な関係を再構築することを余儀なくされたのである。
「お前らに言っておく!!」
ゆっくり話し合ってね。とフレアにつれてこられ、中に押し込まれ、外側から鍵をかけられた宮殿の薄暗い一室で、口火を切ったのはアルベリッヒであった。
だんっ!!と部屋の中央のテーブルを叩き、瞬時に舞い上がった大量の埃にむせながら、
「俺はゲホっ!!本来ならこんな茶番に付き合う言われも義理もゲホ無い身だゲホ!!その俺が時間っくしっ!を割いてつきあってやってゲホるんだから少しはありがたく土下座でもフゲホっ!しろ!ぇっくしっ!!」
「だったら俺もっ、言わっ、せてもらうがなぁぁふぇくしっ!!!」
「・・・埃がおさまるまで待ったらどうだお前ら」
咳とくしゃみでわけのわからない有様になっているアルベリッヒとジークフリートの二人に、フレアの「鬱陶しいから出て行け」発言で少なからず厭世的になっているハーゲンが言った。
アルベリッヒはポケットから真新しいハンカチを出してちーん!と鼻をかんだ。なかなか几帳面な男である。
「とにかく!真昼間から何が原因でクソ寒い問題を起こしおった!?さっさと吐け!吐いて楽になれ!ていうか俺を楽にしろ!!」
「誰が貴様なんぞに言うか!」
「吐かねばあの女どもは未来永劫ここに俺達を閉じ込めておく気だぞ!?それでいいのか!?」
「貴様に屈するよりはマシだ!!」
「っのプライドのド高い頑固野郎がぁぁぁぁぁぁっ!!!ええいもういい!ならば俺にも考えがある!好きなだけ意地を張っていろ!!」
ここで会話がぶっつりと途絶えたまま、かなりの時間が経過した。
「お、のれ・・・・アルベリッヒ、卑怯な手をっ・・・!」
真っ青な顔をしたジークフリートが唇を噛み締めながら呻いたのはどれくらい経った頃だろうか。
その横で、同じく必死の形相のハーゲンもアルベリッヒを睨んでいる。
睨まれている方は余裕を持って笑っていたが。
「別に俺が何かをしたわけではないが?あんな廊下で延々立ったまま喧嘩をしていたお前たちだ。こんなところに長時間監禁されれば、便所に行きたくなるのも当然だろう」
「貴様は行きたくならんのか!?」
「ふっ!何を隠そう俺は図書館から帰る前に行っておいたのだ!しかももともとトイレが遠い方!」
威張るような事ではない。
「さあどうする?大事な大事なヒルダ様の宮殿でそそうをするか?何歳だお前?」
「お、おのれぇぇぇぇっ!」
「ハーゲン、貴様も危ないのではないか?万が一にもこの場で漏らそうものなら、フレア様は今後お前をすごく嫌な仇名で呼ぶだろう」
「黙れ!そんな事は言われなくてもわかっている!!」
「なら吐けよ!!どうしてそこまで意地を張るんだお前ら!?」
『貴様が嫌いだから!!』
「大人気ないのも大概にしろよ・・・そんなに漏らしたいか」
ジークフリートがぎりっと奥歯をきしらせた。
「なめるな・・・こんな奸智に屈する俺ではない!生き恥をさらすくらいなら、今すぐこの場で死んでやる!なあハーゲン!?」
「ああ!最初は適当なところで泥を吐いてもいいかなと思っていたが、ここまで来ると男の意地だ!貴様の思い通りにはならんぞアルベリッヒ!」
「そこまでするほど俺が嫌いかお前らはっ!?ってちょっと待て!自害なんぞされたらまた俺に全責任が被せられ・・・」
「いい気味だ!」
「・・・・・・・・よし、わかった。そうまで言うなら俺も止めん。死ね」
徹底的に嫌われ、さすがに何もかも馬鹿馬鹿しくなったのだろう。アルベリッヒは眼を据わらせて言ってのけた。
「俺の積もり積もった恨みはお前らの死んだ後に晴らしてやる」
「フン、戯言を。俺達が死んだ後に一体何ができるというのだ」
「ヒルダとフレアを犯す」
だがらっしゃあ!!
『それは待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!』
椅子を蹴倒して立ち上がり絶叫するジークフリートとハーゲン。この瞬間だけ尿意を忘れたようである。
「貴様っ!いくらなんでもやっていい事と悪い事があるだろうが!!!」
「ふっふっふっ、知らんなあ。今さら俺にそんな常識が通用すると思うなよ。しかも普通のやり方では無い!ネイチャーユーニティーを駆使して『触手に襲われる美女』というお約束のシチュエーションを大衆公開してやるわ!!」
恨みに我を忘れているアルベリッヒは男として一番どうしようもないレベルまで落ちた発言をかました。だが、
『なっ!?・・・』
と言ってリアルに想像し顔を赤らめている残り二人も間違いなく同レベルまで落ちていた。ジークフリートとハーゲンの脳裏には、アルベリッヒの素敵な・・・もとい、外道な能力によって凶暴化した植物がその枝でたおやかな少女達の体を巻き取り、手首足首を縛り上げ、服なんかをびりびりに破いてしまったりした挙句、「や、やめて下さい・・・誰か・・・ジークフリート!」「いやぁっ!助けてハーゲン!」とかなんとかいう悲鳴をあげさせるところまで想像した。さらに・・・
「・・・っておい。いつまで妄想してる気だお前ら」
『はっ!!』
我に返る二人。
「お、おのれアルベリッヒ!いいところで声を・・・ではなく、何という愚劣な真似を!!」
「俺の死んだ後フレア様に手を出すなど絶対に許さん!!生きてるうちならともかく!!」
「・・・お前ら・・・いや、まあいい。そうまであいつらの身を案じるならさっさと泥を吐くのだな。正直俺も先祖代々伝わる技をこんなアホな事に使いたくないし」
「ぬぅっ!」
「ふざけるな!誰が貴様のようなますます卑劣な輩に!かくなる上は貴様を殺してから俺達も死・・・」
「お前達が死んだらヒルダとフレアは泣くぞ」
・・・・・・・・・・・・・・・
「ただでさえ今度の喧嘩で胸を痛めている。これ以上あいつらを悲しませたいか。ん?」
「・・・・・アルベリッヒ」
「無益な事はよせ」
赤い髪の青年は静かに訴えた。つい今しがた最低な犯罪予告をした人間と同一人物とは思えないほど真面目な顔であった。
ジークフリートが眼を伏せ、ハーゲンも伏せた。
こちらもまた先ほどどうしようもない妄想を繰り広げたのと同じ脳だとは思えないほど誠実に、ヒルダとフレアの悲しむ様子を思い浮かべた。
溜息をついたのはどちらからだったろうか。
「・・・わかった」
ついに彼らは白旗を掲げたのだった。
「話そう。ただ・・・ヒルダ様とフレア様には内密にしておいてくれ。あの方々に余計なご迷惑をおかけしたくはない」
「今さら」
「お前も知っているだろう。私はヒルダ様を、ハーゲンはフレア様を心からお慕い申し上げているのだ」
「わかったわかった。つまらん感傷だとは思うが言わないで置いてや・・・」
「それでつまり、あのお二人のどちらが魅力的かということで喧嘩になった」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アルベリッヒは何も言わずにテーブルを担ぎ上げると渾身の力を込めて二人の頭をどつき倒した。
四半時の後。
「そう・・・・そんな事で喧嘩をしていたの」
ワルハラ宮の中庭には、やるせなさの余り内側から扉をぶち割って出てきたアルベリッヒの報告を聞いて溜息をつくフレアがいた。
「馬鹿ね」
「まったくです」
「お姉様には言えないわこんな事。・・・あの二人は今どうしてるの?」
「用足しに行きました。とどめを刺したつもりが案外しぶとく生きていたようで・・・残念です」
「私とお姉様とどちらが魅力的か、ねぇ・・・」
ちょっと小首をかしげて思案するフレア。しばらくしてくるりと振り向き、
「あなたはどう思う?アルベリッヒ」
「は?」
「私とお姉様と、どっちが素敵かしら」
「興味ありませんな」
「興味が無くても客観的に見てどちらかぐらいは答えられるでしょう?」
「こんな事に客観が存在するんですか」
ちらりとアルベリッヒは少女に侮蔑の眼を向けて、
「魅力の世界基準など聞いたことがありませんのでね。ある女性を好むか好まざるかは結局主観の問題ですよ。金の髪と銀の髪と、どちらが上か決められますか。ある者は気の強さを美徳だと思い、ある者はしとやかさを好む。あなたに惹かれる男もいれば姉上に惹かれる男もいる。私はどちらにも惹かれない。そういうものではないのですか」
「・・・・・・・」
フレアは目を丸くして隣の男を見上げた。
「結構・・・まともな事を言うのね」
「フン。この程度でまともと言っていただける。ありがたい国ですよアスガルドは。私に言わせてもらえば他の奴らがまともでないだけなんですがね」
「・・・そうね。もしかすると、あなたが一番まともで立派な事を言っているのかもしれないわ」
「もしかしなくてもそうです」
「でもね、アルベリッヒ。人って、多分あなたが思うほどまともじゃなくてよ」
「・・・と、おっしゃいますと?」
「恋をしたことある?」
ぶはっ
アルベリッヒは吹き出した。
俺が?と思わず素の口調に戻って、呆れ返った笑いを浮かべる。なんて馬鹿な事を訊ねる小娘だろうと。
「そう見えますか」
「あるの?ないの?人を想って眠れなかったりしたことは?」
「あいにく寝つきはよい方なんでね。そんなセンチメンタルな感情には過去も未来も縁がなさそうですよ」
彼の声はほとんど爆発しそうな笑いのために震えていた。かなりあからさまだったので、フレアも気づいたはずである。
だがしかし、少女は強気の視線で彼を見上げたまま、落ち着き払って言った。
「だからあなたにはわからないのね」
「はい?」
「世間一般のまともじゃない人の気持ち。一度死ぬほど誰かを好きになってみた方がいいわ。そうしたらあなたにも喧嘩した二人の気持ちがわかるわ。つまりね、ハーゲンが誰かと比べて下だなんて言われたら、私だってきっとその人と喧嘩するのよ。そういうこと」
フレアは言葉の後に、アルベリッヒの嘲りを拭わせるほどの綺麗な微笑みをつけたした。
一方、用足しを終えたジークフリートとハーゲンだが。
彼らは彼らで、何はともあれ揉め事を起こした詫びを入れにヒルダのもとへ赴いていた。彼女は謁見の間にいた。
「それでは、あなた達はもう仲直りをしてくれたのですね」
「はい」
「大変ご迷惑をおかけいたしました」
深々と頭を下げる二人。ヒルダはほっと安堵の吐息をつき、包み込むような笑顔を向ける。
「いいえ、私は何もできませんでした。アルベリッヒのおかげです。彼も本当は気の優しい思いやりのある人なのですもの、きっと円く治めてくれると思いました」
・・・ジークフリートとハーゲンは何も言わなかった。ただずきずきと痛むどつかれた頭の事を考え、神妙にうつむいただけである。
ヒルダはそんな微妙な空気には気づかず、ハーゲンに、
「フレアもとても心配していましたよ。どうかあの子のところへ行って、良い報せを伝えてあげて下さい」
と言った。
「は。ではお言葉に甘えて失礼させていただきます」
ハーゲンの去った後にはヒルダと、差し向かいのジークフリートが残された。
しばしの沈黙が落ちて。
「・・・あの」
「ヒルダ様」
二人は同時に口を開き、同時に閉じた。
再び沈黙。
そして、
「・・・どうぞ、ジークフリート。何を言おうとしたのですか」
「いえ、ヒルダ様からお先に」
「私はよいのです。どうか貴方から言って下さい」
「は。その・・・・・実は、今回の喧嘩について・・・原因をお話させていただければと」
ジークフリートは罰が悪そうに空咳を一つした。
ヒルダの口元がほころんだ。
「実は今、私もそれを聞こうとしていたのです。どうかお願い・・・でも、約束ですから、話しづらいことでしたら・・・」
「いいえ。確かに私は最初、貴方のお耳には入れたくないと思っていました。しかし、やはりこういう事で貴方を欺きたくないので・・・今から思えば我ながら赤面の至りですが、聞いていただけますか」
「ええ、ぜひ」
「では」
と、北欧の勇者は顔を耳まで赤くして、ことの発端を包み隠さず告白した。それは大して長い時間を要さず、また複雑な内容でもなかったが、ヒルダを絶句させるには十分事足りるものだった。
しばらくの間は彼女は何も言えなかった。
ようやく言葉が口をついて出たのは、ジークフリートが話し終えて後、数分も時間が経過してからであった。
「私と・・・・フレアが、どちらが魅力的か、という・・・こと?」
「・・・はい」
「貴方が私。ハーゲンがフレア」
「・・・・・・・はい」
ヒルダの目の縁がほんのりと色づいた。いつになく落ちつかなげにそわそわと指先を動かし、少しだけ笑う。
「ハーゲンが・・・ハーゲンがフレアを好いている事は私も知っています。彼はとても素直に気持ちを表わす人ですものね。きっとフレアの明るくてひたむきな所を気に入っているのでしょう。あと、強い心も。そう言っていませんでしたか?」
「ご明察のとおりです」
「やっぱり。そうだと思ったのです」
・・・・・・・・・
「それで、あの」
「・・・はい」
「あなたは・・・・その・・・どうして私を?」
「・・・・・・・・どうしてかと申しますと・・・・・・・つまり・・・」
「はい」
「・・・つまり・・・」
「つまり?」
「あなたは・・・・・その、何と言ってもアスガルドの統治者でいらっしゃいますし」
言った直後に北欧の勇者は自分で自分の舌を噛みたくなった。こういう事を言いたかったのではないのである。
しかし口に出した言葉というものは取り返しのつかないもので、ヒルダは一瞬拍子抜けの表情をした後、優しい微笑を浮かべてこう答えてしまった。
「そうですね。私はアスガルドの統治者です。あなたは、私を認めて下さっているのですね」
「!い、いえ、そんな認めるなどという・・・!」
「あなたほどの人に認めてもらえる事は、国を治める者にとって何よりの支えになります。ありがとう、ジークフリート」
「ヒルダ様・・・!」
「私・・・・部屋に戻ります」
ヒルダはそれまで座っていた石造りの質素な玉座から立ち上がると、うつむきがちになりながらもジークフリートに眼を向け、何も心配はいらないのだというように笑って見せた。
「これからはハーゲンと喧嘩などしてはいけませんよ。私はあなたに認めてもらえるだけで十分ですから。ね?」
「・・・・は」
額からふつふつと沸く汗。顔を上げることのできない彼のつむじを、ヒルダはじっと見つめる。
そして出ていった。
一人残されたジークフリートはしばらく最敬礼の姿勢から立ち直る事が出来なかった。
彼に出来たのはただ、己の口下手さを呪い、両手で絶望的に顔を覆ったことだけであった。
「・・・俺はあんたみたいな女が大嫌いです」
部屋を出て最初の曲がり角を曲がったとたん、そこに待ち構えていた思いもかけない男から思いもかけない言葉をあびせられ、ヒルダは息を飲んで立ちすくんだ。見開いた目から涙が一粒転がり落ちた。
アルベリッヒはそれを心底嫌そうな目で睨んだ。
「心にもなく笑う。隠れてこそこそ泣く。あの馬鹿の台詞は上の小窓から筒抜けに聞こえてきましたよ。あんたは奴の横っ面を張り飛ばしても良かった。が、それをしない。しないくせに泣く。鬱陶しい事この上ない」
「・・・・」
ヒルダは慌てて指先で涙を払った。しかしそれではとても間に合わないのを知ると、恥じ入ったように顔を伏せてしまった。押し殺したかぼそい声が男の耳に届いた。
「私は・・・・本当に、どうして泣いているのか」
「ご自分でわからないんですか」
「・・・・はい」
「つまり救いようもないというわけだ。フレア様ならすぐにおわかりになるだろうに」
「フレア・・・あの子は、どうしています?」
「向こうでハーゲンといちゃついてますよ。・・・というか一方的にいびっているというか・・・俺はああいう女も好きませんが、しかし彼女、唯一肝の太さだけは賞賛されてしかるべしでしょうね。少なくとも意中の男に好きだといわせる術は心得ている。あんたとは違う」
「・・・・・・・」
「こんなところでめそめそしているようでは、あんたも笑われるでしょうよ。馬鹿の気持ちのわからない人間だと」
「え・・・?」
「あの馬鹿の気持ちを代弁して差し上げましょうか」
あの馬鹿、というのがジークフリートの事だとわかったヒルダは、一つしゃくりあげた後、眼をまるくしてアルベリッヒを見上げ、黙ったまま続きの言葉を待った。
続きはこうだった。
「あいつは、あんたが触手に襲われて脱がされて乱暴されかけた挙句、自分に助けを求めてくる事を妄想するぐらいあんたに対して重症ですよ」
・・・・・・・・・・・・
「わかりましたか?」
「全然です。すみません。あの、触手って一体・・・?」
「男のロマンの一つです。とにかく、あいつにとってそういうロマンの対象なんですよ、あんたは」
「はあ・・・」
「分かり易く言うとですね。あいつはあんたに惚れている、理由はあんたがあいつの好みの女だからということです」
ヒルダはまた黙った。丸くなっていた目がさらに輪をかけて大きく丸くなった。同時に、頬から耳の先までが真っ赤に染まっていった。
見ていたアルベリッヒは、もういい加減こんな茶番につきあうのはごめんだとばかり背を向けた。去り際に捨て台詞を一つ。
「本人に聞いて見なさい。以上」
それから半刻もした頃である。
顔面に死相を浮かべたジークフリートが地球を貫通する穴でも掘りそうなぐらい重い足取りで謁見の間から出てきた。
彼はそのままよろよろと自分の部屋に帰ろうとしたが、いきなり目の前に駆け寄った人影に驚いて立ち止まった。
ヒルダであった。
「あの」
と、彼女はジークフリートが言葉を発するよりも早く言った。顔を俯けたまま。頬の脇からこぼれ落ちる銀髪に埋もれて、赤い耳の先が見え隠れしている。指は何かを懇願するように、胸の前できつく組まれていた。
「聞きたいことがあります。私は本当にあなたの・・・・・・・・・」
一気に言った言葉が唐突に止まる。ジークフリートは唖然としてヒルダを見るばかり。
「あなたの・・・・・私は・・・・・その、あなたは、触手が」
「え?」
「その、あの・・・・・・・・・ごめんなさい、私は・・・・」
「はい」
「私はあなたの好みの女、ですか?」
ごくごく小さな声であった。が、何を言われるのだろうと耳を澄ませていたジークフリートにはちゃんと聞こえた。
一瞬置いて、今度は彼の方が耳まで赤くなった。
ジークフリートの脳はフル回転を始める。好みの女、とは。まさかヒルダ様の口からそのような言葉が出てこようとは。いや、驚いている場合ではない、一刻も早く答えなければ。しかしどう答えれば良いというのだ、好みか否かと聞かれればそれはもちろん好みに決まっているが、この思いは好みとかそういうのを超越している。好みの女とかそんな「女の系統」みたいなカテゴリーにこの方を入れたくはない。というのを口下手な俺が一体どこまで説明できるのか。
「好み・・・というか」
ジークフリートはヒルダを見た。うつむいて、両手を組み合わせて、恥ずかしさのあまり消え入りそうになっているヒルダ。
その姿はどんな言葉よりも素直にストレートに彼女の気持ちを表わしていた。
淑女にここまでさせながら、もう二度とごまかしのような言葉を言えるわけがなかった。
ジークフリートは腹を据えた。
「好みというか、男としてあなたが好きなのです、ヒルダ様」
それはおそらく、彼の宮仕え人生の中で最も無礼な発言であった。
「ちょっと!また喧嘩をしているのあなたたち!」
ワルハラ宮にフレアの声が通り抜ける。ぱたぱたとかけてきた少女の前に、睨みあっているハーゲンとジークフリートがいる。
「もう、何でそうなの!すぐにやめないとお姉様に言いつけるわよ!今度の原因はなに?」
「どっちの愛がより報われているかどうかです!ジークフリートよ!未だにヒルダ様に指一本触れることのできないお前に勝ち目はないわ!」
「フッ!そういうお前こそ、フレア様に接触できるのは蹴られた時か高い場所にある物を取ろうとして踏み台にされる時だけだろうが!」
「やかましい!一世一代の告白をして『ありがとう』で済まされたお前にどうこう言われる筋合いはない!この生殺され男!」
「お、のれ、心の傷をえぐりおって・・・!好きです言うたびに『はいはい、いいお天気ね』とか何とか流されまくってるお前は生殺されていないとでも!?自分の事を棚に上げて人にとやかく言えた義理か!」
お互いに傷口をかっぴろげながら塩を塗りこむ戦いを繰り広げる二人を、フレアは人間以下の生物を見る眼で眺めていた。
後刻、またしても依頼を受けたアルベリッヒが、「今度は遠慮無しでやっちゃっていーから」というフレアからのリクエストにお応えしてネイチャーユーニティーで二人を脱がす事になるのだが、そんな事を今の彼らが知るはずもない。
ロマン溢れる触手に自分らがとっつかまるまで、延々とどうしようもない争いを繰り広げて心の傷を深め続けるジークフリートとハーゲンであった。