「…では、彼ということで」
「ええ」
サガが確認しアテナが頷く。
それで全ては決定した。





その朝、ムウは珍しいものに出くわした。
眉尻を下げ、困惑と意気消沈を複雑に織り交ぜた顔のアルデバランが金牛宮から降りてきたのだ。
「アルデバラン。どこへ?」
もはや十二宮の改札と化している白羊宮の番人としては、入るも出るも一声かけるのが習慣であった。
 友人の眉がますます下がったように見えた。
「ムウ、聞いてくれるか」
「私でよければ勿論」
「俺はこれからアテネに行くのだが」
「アテネへ」
「ああ。アテナのご命令だ」
「ほう」
そこでホテルの神父をする

・・・

「あ、ではそういうことでしたら通って下さい、どうぞ」
「聞けよ。なぜとか。どういうことだとか。もっと突っ込んだ質問を少しはしてくれ」
「いえ、いいと思います神父。いけますいけます合ってますほんと」
「俺の目を見て言えるかその適当な台詞を。おい待てこら」

 がし。みしぃっ。

「…人の肩軋ませるほど嫌だったならその場で断れば良かったじゃないですか」
「できるか!ホテルの神父はカタギの世界と聖闘士を繋げる唯一の糸、彼がいなければ聖闘士星矢は始まってすらいない、しかしその重要な人物も寄る年波には勝てずいい加減体もしんどいので隠居したいと言い出した、よってあなたが二代目神父をしてくださいアルデバラン、俺にどうしろと!?」
「断れと。あなたが神父をする理由何一つないですよね」
 アルデバランはため息をつき、ムウの肩から手を離した。
「…俺も疑問に思ったのでそれとなく、もっと適したシャカなどがいるではないかと言ってはみたのだがな」
「疲れた顔してやりますねあなたも。それで、どうなりました?」
「どうもこうもない。あれは神父というより神だからと返されてなすすべもなかった」
「…ああ、まあ…」
「俺は今でも思う。俺なんぞよりもっと、たとえばお前の方が神父には合うと
「もう一本落としましょうか角」
「…しかしまあ、そういうわけだ」
力なく言って、男は白羊宮の外へ爪先を向ける。
 去り際に、邪魔したな、と呟く背中が丸かった。
「…健闘を祈ります」
 なんとなく言ってみるムウだった。




ホテルグランデブルターニュ・ラグジュアリーコレクションホテル。
アテネ市内シンタグマ広場に面し国会議事堂と向かい合う、本気の五つ星ホテルである。
「…」
こんなド派手な観光地のど真ん中で自分が何をできるのか、アルデバランはかつてない不安を覚えた。
一応聖闘士の礼儀としてフル装備で参上したが、正面玄関を入る前になんとなくマスクは取って、折れた角が見えないように小脇に抱えたものである。
すれ違う観光客の好奇の視線が、かつて食らったどんな攻撃よりも痛かった。
「失礼、お客様。どちらへおいででしょうか」
「…聖域から来たのだが」
「!こちらへどうぞ」
 玄関を入る寸前で笑顔の守衛に誰何され、髪をぴったり撫で付けたイケメンのホテルマンにパスされて、建物脇を迂回し裏に案内される。これも何かが心に痛い。
 今すぐ誰も来ないところに逃げ出したいと、金牛宮を守る番人らしからぬ事すら考えてしまったアルデバランは、裏口からどこをどう歩いたのか、最終的に首脳会談でも開催できそうな重々しい会議室に通されて呆然とした。
 途中、貨物用エレベーターに乗せられたことにも彼は気づいていなかった。
「支配人を呼んで参りますので、こちらで少々お待ちください」
 巨大な長机には紋章透かし入りのメモ用紙とペンが一分の隙もなく並んでいる。壁にはモニターが設置され、さあpptを表示しろと言わんばかりである。
アルデバランは思った。ここは自分のきていい場所ではない。
「お待たせいたしました」
 現れた支配人は特上仕立てスーツを着たまま笑顔でこの世に生まれてきたような男であった。
「初めまして。ようこそいらして下さいました。私は当ホテルの支配人の…」
 聖域には存在しない「大歓迎」の雰囲気。満面の笑顔。入り口に目をやればイケメンのホテルマンがこれまた微笑みと共に控えている。
 アルデバランはますます気圧された。
 
 そして気圧されたまま全ての説明を受けてしまったのだった。

「…」
 支配人が立ち去った会議室で、どっぷりと悩みこんだままアルデバランは無言であった。
 仕事は他愛ないものである。ホテルに滞在し、やってくる観光客に接してはアテナを護る少年達の伝説を話す。
そして時折、面倒ごとが起きた時にはささやかに力を貸して貰えれば、と支配人は言った。
 力で片付くことなら全然いい…が、それよりもメインの「観光客をタイミングよく捕まえて楽しませる」についてはできる自信がまるでなかった。
 一体…なぜ自分がこんなことを…

「おい」

 コンコン。
 ふと顔をあげれば、例のイケメンホテルマンがドアを内側から軽く叩いて呼んでいるのだった。
「いつまでそうしているつもりだ?慣れるためにも、仕事には早く取り掛かった方がいい」
「…そ、うだな。すまん…」
「これが神父の服だ。前任からの使い回しだが、傷んではいない」
「…。しかし、サイズが」
「安心しろ、前任の神父もそれなりに巨体だった。爺とはいえ、肩幅だけで一般人の2倍はあったからな。服自体ゆとりのある作りだ。あんたには多少窮屈かもしれないが入るだろう」
「そ、そうか」
「この部屋で着替えていい。脱いだ黄金聖衣は預かろう。パンドラボックスが無いようだし、コンシェルジュの貴重品金庫に保管しておく。では…」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
テキパキと指図し出て行こうとする男に、アルデバランは慌てて声をかけた。
 何か?と振り向く整った顔をまじまじと見つめる。
「…どこかで会っただろうか?」
冴えた目に見覚えはない。しかしパンドラボックスなどという専門用語が容易く飛び出す物言いは、普通ではない。
 男は、生意気そうな眉を跳ねあげてニッと笑った。
「会った、というほどのことはない。あんたは俺を知らないだろうが、俺はあんたを知っている。…さすがにここまで、黄金聖闘士を知らずに聖域にいられるわけがないからな」
「…は?」
「聖闘士だ。俺も。あんたの後輩だよ」
 アルデバランは目を剥いた。





「まあ。では…」
丸い目を瞬かせてアテナは驚きの声を上げた。
「ホテルのバイトはアルデバランだけではなかったのですか」
「はい…申し訳ありません。私も先ほど知りました」
答えるサガにも戸惑いの色があるようだ。
「聖闘士が街中で偶然出会う…ロクなことが起こらない気がしますが、サガ、あなたは彼を知っていますか?どういう聖闘士なのでしょう。ごめんなさい、私はまだ会ったことがなくて」
「…よく知っております」
男は思い切り視線を外して見せた。頬に汗が一筋。
「まあ、その…私のようなものには非常に重宝な男でしたので」
「ということは、蟹系?」
「いやあれとはまた違った類で…アテナ、猟犬座の聖闘士について聞いたことはありませんか?」
「猟犬座?」
アテナはしばし黙った。それから、静かに呟いた。
「ああ、噂だけは聞いたことがありましたね…」





「俺は猟犬座のアステリオン。これでも白銀聖闘士だ」
と、イケメンのホテルマンに言われたアルデバランはしばし言葉が出なかった。
 猟犬座のアステリオン。猟犬座の…
「…聞いたことはある気がする」
「良い噂では無いだろうな。警戒してくれなくていい。あんたの心を読む気は無い」
「な、なぜ俺が警戒したとわかった!?」
「いやその強張った顔と汗と若干引いた体勢で丸わかりだろうが。見ればわかるものをいちいち裏まで読みに行かんわ」
 そうなのである。猟犬座の聖闘士といえば、人の心を筒抜けに読むサトリの法を使う男として、静かにその名は囁かれていた。
 アルデバランは唸った。
「お前がそれか」
「そうだ。なぜこんなところにいるのかといえば俺の能力には今の聖域が平和すぎて何の修行にもならず、会うやつ会うやつ心の中では環境の愚痴と飯と女の事しか考えてない上にそれが全部顔に出ているので、仕方なく人が体裁を取り繕って必死に内面を押し隠しながら集まる場所、つまりこの超高級ホテルに雇ってもらったというわけだ。ちなみにこの回答は当然来るであろう質問を予期しただけで、あんたの心を読んでしたわけではない。以上、何か質問は?」
「すまん、説明と全然関係ないんだが便所がどこか教えてくれんか。さっきから我慢していた」
「そうか。心を読んでやらなくてすまなかった。こっちだ」
 ジャー
「…人心地ついた。それでつまり、俺はお前と共に働けばいいわけだな?」
「いや、極力別行動でお願いしたい」
と、アステリオンはきっぱり断った。
「あんたが側にいると周りの人間が『このでかい人はなんだろう』しか考えなくなる。副業禁止と言われたら面倒なので、俺もバイトについては聖域に届けを出していなかった。だから俺がここにいる事は教皇も知らないはず…だったのだが」
「だが?」
「支配人を呼びに行くときに眉毛の丸いガキがチョロチョロしていたのを見かけた。目が合ったら瞬時に消えたので、多分そいつの師匠伝いに全部バレただろう」
「貴鬼か…」
ムウに様子見を言付かったのだろうと考え、アルデバランは微笑した。薄情に見えた友人も、存外心配してくれているらしい。
 同時に、違和にも気付いた。
「お前、よく知っているな」
「まあな」
「教皇というのはサガのことか。確かに、なんだかんだで今もほとんど教皇同然だが」
「俺にとってはあの人が、骨身に染みるほど教皇なんでな」
「?」
「どうでもいいが便所から出よう。あんたといると狭い
「…ずけずけ物を言う奴だな」
 踵を返すアステリオンの後を、アルデバランは慌てて追いかけたのだった。





 通いで良いのかと思っていたが、ホテル側は二代目神父に一室を用意していた。神職のせいなのかなんなのか、一般スタッフとは違うゲスト扱いのようである。
 出来る限り逃避したいアルデバランにとっては、ありがた迷惑な話であった。

 1日目は自室の窓から遠く見える聖域を偲んだり、ふんわりした絨毯の上を所在無げに歩き回ったりして過ぎた。本当はエントランスにでも立って客を物色しなければならないはずだったが、アステリオンに割とストレートな接近禁止をくらったせいもあり、うかつに動けば邪魔になるのではと、どうも外に出る気がしなかった。
 
 2日目。そうは言っても腹が空くので屋上レストランに上がってみた。爽やかなウェイターに滑らかに案内されシミひとつないテーブルにつき、豪奢なしかし品の良い飾りを施したテラス越しに美しい風景を眺めながら、たっぷりのフルーツとペストリー、それに作りたてのオムレツで朝食をとった。
 どう考えても自分のガラではないと気づき、再び部屋に戻って椅子に埋まったまま一日が終わった。夜はまっさらなシーツにくるまって寝た。

 3日目。外に出られないならルームサービスを頼めば良いと備え付けのガイドを読んで気づき、食い足りなかった過去二日分の埋め合わせのごとく色々注文してベッドに寝転がりながら食べた。一日が終わった。

 そして4日目。
「アステリオン!俺はもう無理だ!ここにいたらどんどん己が駄目になる!」
 ラウンジに、ホテルマンを捕まえて悲嘆の声をあげるアルデバランの姿があった。
「この3日でなにかもう恐ろしいほど駄目な自分を垣間見てしまった。これ以上神父は無理だ!聖域に帰るので支配人に伝えておいてくれ!」
 制服のそでをふんづかまえられたアステリオンはしばし無言であった。否とも応とも、無理というほど神父してないだろうとも言わなかった。よく櫛の通った髪をツヤツヤさせながらニ三度首を傾けるばかりである。
 やがて言った。
「すまない。込み入った話は俺ではわからない」
「!?いや、込み入ったというか俺は…!」
「あっちにいる本体に聞いて欲しい」

「…『本体』?」
「眼鏡をかけている」
と、男が指差す方を見れば。
 確かに柱の向こうからもう一人、眼鏡とツヤツヤ髪を光らせたアステリオンが歩いてくるところなのであった。
「!!?」
「そう驚かなくていい」
 『本体』は少しばかり愉快そうに笑んで言った。
「チェックアウトの時間は人手が足りん。デフォルト危機だのなんだのでギリシャの景気は酷いのだ。老舗高級ホテルも例外ではなく、最近は人員削減を重ねてサービスが行き届かなくなっている。仕方がないので繁忙時間は俺のもう一つの技を駆使している。それだけのことだ」
「もう一つの技…?」
「ミリオンゴーストアタック。自身の分身を作り、動かす技だ。これはその応用で、まあ本体が基地局、分身が端末、小宇宙の届く範囲が操作圏内だと思ってもらえればわかりやすいか」
「いや全然わからん色んな意味で。お前は聖闘士の技を何に使ってるんだ…」
 ぐるりをよく見渡してみれば、エレベーター前にはボタン操作をするアステリオンが、チェックアウトカウンターには室内備品の使用確認をするアステリオンが、そして入り口には五段積みでスーツケースを運ぶアステリオンが、それぞれ笑顔で生き生きと働いていた。
「…支配人には感謝されている」
「心を読み直せ、絶対不気味だと思われているぞこれ」
「いや、さすがに俺だっていきなり五人も六人も出したわけではない。最初はそっと一人から始めて、徐々に増やした」
「だから何だ。少しずつ増やせばバレないとか、そんなのが通用する次元じゃなかろうが」
「文句の多い人だな」
 アステリオンは気分を害したようだった。
「俺の仕事をとやかく言う前に、自分の仕事はどうなのだ」
「ぐ…っ」
「分身にケチをつけるならあんたにも手伝ってもらおう。そら、向こうにアホみたいに大量のケースを引きずった肥満の女がいる。あれを担いで表に出すぞ」
「…承知した」
「!!待て!担ぐのはケースだ、女はほっとけ!」
「な、なに?いやお前の言い方だとどう聴いても肥満の女を外に出せと」
「キャー!タスケテー!」
「っ、申し訳ありませんマダム、神父が失礼な真似をっ!」

こうしてようやく、アルデバランの仕事は始まったのである。





「うまくやっているようですね」
報告を聞いて、女神は微笑した。
教皇の間には彼女とサガ、そしてその報告を持ってきたムウがいる。
「ポーターとしての信頼は相当なもののようです。貴鬼が申すには『だってどっからどう見ても力持ちそうだもん』とのことで」
「…で、神父としては?」
「無理なものは無理」
「なぜだ!?」
 サガは机をぶっ叩いた。
「簡単な仕事だろう、アホヅラとカメラ下げてヘラヘラしてる観光客をとっ捕まえて洗脳するくらい!
「…すみません、アルデバランは何しに派遣されたんでしょうか」
「まあサガの言い方は悪いですけど」
と女神が取りなすように苦笑する。
「平和な時代になると、人はみな戦士の事など忘れてしまいます。聖闘士がかっこいいとか聖闘士になりたいとか思う若者が少なくなっているのですよ。これは由々しきことでしょう」
「お言葉を返すようですがアテナ、私達も別になりたくてこうなってるわけではない」
「一緒にするな!私はかなりのところまでなりたくてこうなっている!」
「良かったあなたと一緒でなくて。…アテナ、若者への宣伝でしたら、何もアルデバランをお使いにならずとも良いのではないでしょうか。状況から考えて、アステリオンにやらせばいいのでは」
「そう…それはそうかもしれません」
 アテナは悩ましく息をついた。
「でも、それでは、若者に定着している『牛はダメ』みたいなイメージを払拭することはできない…」
「今神父やって払拭できるようなものでもないんじゃないでしょうかそれは」
「怪力の戦士に見えて裏の顔は神父。いいギャップだと思いませんか?」
「強いように見えて弱いというギャップでもう十分です。そしてやるとしても裏表逆です
「でも…」
「まあ、もう少し様子を見ても良いだろう、ムウ」
 サガが自分の姿勢を正しながら言った。
「まだきっかけが無いだけかも知れん。何か事が起これば神父に目覚めると私は見てる」
「聖闘士二人いる前で事が起こればそれはホテルが消える時では」
「そう心配するな。アステリオンは無茶をするタイプではない」
「いや、でも、ミリオンゴーストアタック…
「少々マルチな従業員だと思えば問題ない。仕事に役立って文句も出ていないのなら良いだろう。何より、あいつがアルデバランを気に入りかけているようだ」
「どこをどう聞いてそう思いましたあなた…」
 浮かぬ顔のムウは、そうツッコミかけてはっとした。サガの顔に笑みが浮かんでいるのに気づいたのだ。
 それは穏やかであったが、最近は見せなくなったある種の色のようなものがあった。少し、人の背を凍らせるような。
 サガはその顔のまま言った。
「あれは私の犬だ。何を考えようと、私にはわかる」





 ホテルグランドブルターニュ・ラグジュアリーコレクションホテルでは、日々は同じように過ぎていた。旅人が来て、いくらかの思い出を作って、去る。その繰り返しの中に、無数の仕事がある。
 派遣されてから二週間、アルデバランはついに決心を固めた。
「アステリオン、ちょっと良いか」
「なんだ」
「俺も仕事に慣れてきた。荷物と客を混ぜて運んだり、鍵を失くしたトランクを親切心で粉砕することもなくなった。そろそろ大丈夫だと思う。この服だと動きづらいので、俺にも制服を支給してほし…」
「何しに来たあんた」
 みなまでいわせずツッこむアステリオン。心を読んだわけではない、あんたが俺の制服を羨ましげに見ていたのは一昨日あたりから気づいていたと補足した。
「教皇に神父をしろと言われて来たのなら、しろ」
「いや確かにサガもその場にいたが、俺に直接命じたのはアテナで」
「だったら尚更従うべきなのではないだろうか、あんたの立場的に」
「…」
 正論すぎてぐうの音も出ないアルデバラン。大きな体をがっくりと気落ちさせ、声も大分小さくなる。
「そうか…どうしても神父か…」
「どうしてそんなに神父が嫌なんだ?」
「…読めるだろうお前なら」
「俺は特に知りたくもないが話せばあんたの気が晴れるかと思ってしている質問だ。心を読んでも意味がない」
「…」
 正論が痛い。
「ここにいる人間を見ているとな」
 アルデバランの大きな腕が、力なくぐるりを示した。
 ラウンジのソファに埋もれてコーヒーを待っている初老の夫人がいる。エントランスの脇に立って、ガイドを見ながら楽しげに相談している若い夫婦がいる。レストランから駆け出してくる幼い少女と、注意の声をかけながら追いかけてくる母親と、家族の荷物を肩にかけておおらかに見守る父親と。
 そんな人々が、このホテルのゆったりした空気の中で動いている。
 平和であった。
「俺には…どうも彼らに争いごとの話をする気にはなれん。楽しみに水を差すようでな」
 苦い顔の大男を、アステリオンはじっと見上げた。
 そして一つ肩をすくめると、
「まあ観光客相手に血生臭い話をするのはよくないが、人間は平和な時ほど悲劇を好むとも言う。簡単でいい、アテナの聖闘士と呼ばれる男達がいて、大地を割り、空を裂き、なんだかんだで大体死んだとでも適当に話してやれば、あいつらは喜んで聞くぞ。あまり観光客を舐めるな」
「お前がな。いや薄々感じてはいたが、真面目にやってるふりしてお前実はこの仕事舐めてるだろう」
「フッ、言ったはずだ、俺は修行のためにここへ来たと。仕事はともかく、自身の修練は怠っておらん」
「とてもそうは見えんが…」
「見ろ」
と言って、今度はアステリオンが辺りをさっと指し示した。
「猟犬座の聖闘士として、読んだ人の心を軽々しく口にすることはできん。よって詳細は省かせてもらうが、あそこの老婦人と若妻と娘と母親、あれははもう一押しで俺に落ちる」
「何をどうしたお前」
「心を読むだけなら既に造作もないことなので、もう一歩踏み込んで、恣意的に人の心を変えられないかと修練中だ。永の連れ合いを亡くした寂しさ、決断力のない夫への不満、歳上のお兄さんへの憧れ、見てるだけで子育てに参加しない旦那への殺意など、心の底に眠る感情を利用すれば割と色々できることがわかってきた。どうだ、これでもまだ俺が修行をしていないと?」
「しなくていいからもうやめろお前」
 腹の底から声を押し出すアルデバランであった。
 が、しかし。その時。
「あ」
「ん?」
 アステリオンのあげた声に虚をつかれ、その視線の先をたどった彼は、さらに思わぬものを見たのである。
「アイオリア!?」
「魔鈴!」

 神父とスタッフの声は雑に重なってエントランスホールを突き抜けていった。





 二人は普通の格好ではなかった。
 アイオリアは襟のついたシャツに明るい色のスラックス。魔鈴はシックなワンピースの上に軽い素材のカーディガン。足にはそれぞれ、いわゆる革靴と、ヒールの高いパンプスまで履いていた。
 …改めて並べると普通の世界では全てこれ以上ないほど普通なコーディネートであったが、アルデバランの目には魔鈴の仮面しか普通に見えなかったのであった。
「いらっしゃいませ」
 ダミーのアステリオンが爽やかに顧客対応をしているのも頭が痛い。
「…本体が驚愕しているのにダミーには影響せんのか?」
「基地局がぶっ壊れたからといって端末までぶっ壊れたりはしない。ただし、通信が途絶するからマニュアル対応しかできなくなる。それであんな感じに」
「なるほど…悪いが、いったんどかすぞあれ」
 アルデバランは光の速さで端末をどかした。「お荷物はどちらでしょうか」と対応を続ける声が外の広場まで飛んで消えた。
 微動だにせずそれを見送る客二人。
「…お前達、何しに来た」
「ご挨拶だな」
 アイオリアは機嫌が良くない。
「お前の仕事がうまくいっていないからと、アテナにサクラを頼まれたのだ。どうかと思ったが客の目の前でフロアスタッフを消すとは想像以上だ。見損なったぞアルデバラン!」
「客がお前だしスタッフはアステリオンの端末だ。込み入った話はしたくないが問題ないから俺を信じろ。…で、サクラとは具体的に何を?」
「……」
 押し黙るアイオリア。隣の魔鈴が仮面の下で小さく笑った。
「客のフリしてここへ来て、あんたから話を聴けってさ」
「滞在するのか…?」
「予約も無しにこの時期、部屋なんか空いてないだろ。空部屋が無いか聞きに来て断られてその流れで神父だよ。わかったかい」
「あ、ああ…だがどうしてお前達二人が」
「ご夫婦ということなのだろう」
 真面目な声で馬鹿みたいな台詞を挟んできたのは平常稼働に戻ったらしい基地局だった。
「久しぶりだな、魔鈴」
 ニコっと笑う。意外に懐っこい顔になる。
「悪い策では無いと思う。このホテルにはハネムーン客が特に多いからな。一人で来るよりは目立たずに済む。少し若すぎる気はせんでもないが、フッ、まあこの時代だ。ITで一発当てた青年実業家とその妻、というところが女神のお考えなのかな」
「全知全能の神でもアイオリアからその設定は出ない。俺が言うのも何だが」
「とりあえず、形だけでもチェックインカウンターに案内しよう。ここにたむろしていると邪魔になるし目立つ。こっちだ魔鈴」
「…あんたが案内するのかい」
 警戒するような魔鈴の口ぶり。アステリオンはまた笑った。
「安心しろ。今日はお前の心は読まない」
 …
「…どう思う」
 魔鈴とアステリオンがチェックインカウンターに消えた後、底冷えのする声でアイオリアが聞いてきた。アルデバランは口の端で引きつりながら、努めて何事もなく返そうとした。
「まあ、まああれだ。まあその、あれだ。なんだな、天気がいいな今日は」
「不自然すぎるぞ神父。思ったことがあるならはっきり言え」
「い、いや、白銀同士だからな。知り合いなのだなあくまで友人として」
「バカな」
 吐き捨てるアイオリア。
「今の会話を聞いただろう。『今日は』心を読まないとはどういう意味だ。普段は読むのかあいつを」
「そんなことはないだろう。あの男はそこまで節操のない奴ではない。と思う」
「アテナのご命令ゆえ逆らえんが、アステリオンがいると聞いた時点で俺は気乗りはしなかった。というか、はじめはこの役のオファーはデスマスクとアフロディーテに行ったのだ。それがあいつら、『犬がいるならいかない』などと」
 犬。
 そうだ、それが彼の蔑称だったと、アルデバランは思い出した。
 教皇の犬。猟犬座のアステリオン。
「仕様のない奴らだ。どうしてあんなに簡単にアテナの命令を拒否できるのか俺にはわからん。しかし今言った通り、俺も正直嫌だった。サトリの法はどうでもいいが、魔鈴とあいつを会わせたくない」
「お前も大概しょうもないぞアイオリア…」
「自覚はしている。だが。元彼をぶっ殺したいというのはもはや男の本能」
「元カレ!?」
「聖域でよく二人、仲良く脱走者の捕獲や死体の始末などをやっているのを見かけた」
「それは単に、面倒な仕事を面倒見の良いやつらが押し付けられただけなのでは」
「いや、魔鈴はあれには甘い。…同情とは言わんが、まあ周りの奴らの態度に反発するところもあったかもしれん」
 含むところのある言い方だった。
「あの男はそんなに嫌われていたのか?」
 何気なさを装って聞いてみる。
「嫌われていたか恐れられていたか。とにかく人に遠ざけられてはいた。当然だろう、あれの知ったことがそのまま上に伝わるとなれば、な」
 腕組みをし、眉間に皺を寄せたアイオリアの声は硬い。双眸は先ほどからチェックインカウンターを睨んで動かなかった。
 教皇の犬。聖域を、そして聖闘士のいる全ての場所を嗅ぎまわり、情報を飼い主に報告する汚い犬。
 彼の報告が聖域に何をもたらしたのか…それはまさに「猟犬」の仕事であったのだ。
 しかしそこまで察しがついてもまだ、アルデバランはあの男のために何か反論してやりたい気がした。
「そ、れほど、悪い奴とは思えんのだがな」
と自分でも当惑しながら彼は言う。
「ここで共に働きはじめてから半月経つが、あいつは…多少ずれたところはあるとしても、基本的に真面目なやつだ」
「そうか」
気の無い返事だ。
「納得がいかんか」
「別に、そんなつもりはない」
 そこでようやくアイオリアの頬がほんの少し緩められた。友人の困惑を汲んでくれたのかもしれなかった。
 腕を解いて肩をほぐすようにしながら、
「すまん。俺もどうかしているな。愚痴は忘れてくれ。お前も悪いぞ、そんな、人の腹を打ち明けさせる格好しているから」
「したくもないが一応神父なのでな」
「魔鈴が絡むと俺も弱い。情けない話だ」
 さっぱりと笑う。
「いや実はな、俺としたことがガラにもなく神経質にでもなっているのか、さっきからフロアスタッフが全員アステリオンに見えてな」
「いやそれはお前の神経が正しい。人手が足りんのであいつの必殺技で端末を置いてる。知ってるか?ミリオンゴーストアタック」
「なに?…そうか、そういうことか。カウンターから戻ってきた気配はないのにおかしなことだとずっと思っていたが」
「それであんなに睨んでいたのか…」
「いかん魔鈴が。くっ、俺も男の質で負けるつもりはないが、しかし!数で負けたらどうする!」
「どういう意味だそれは…」
 カツカツと高いヒールの音が血迷う男たちの方へ戻ってきた。
「アイオリア」
 振り向けば服の裾をさばきながら歩いてくる魔鈴。その後ろに眼鏡のアステリオンが従っている。何か言いたそうな表情に見えたが、アルデバランと視線が合うとふっと反らせてしまった。
 先ほどの話が、聞こえていたのだろうか…?
「アイオリア」
 魔鈴の声がもう一度冷たく響く。何かを悟ったのか、名指された男が息を飲む。
 そして次の瞬間。
「!」
 アイオリアの目の前に突きつけられる拳。
 …の間からぶらさがる、重たい飾りのついた鍵。
 …
「キャンセルで一部屋空いてたよ。どうする?」
 沈黙が、落ちた。





「…話が違うだろう魔鈴。どういうつもりだ」
「あたしに言われても困るよ」
「『困る』?そうかお前は…だがそれならなぜチェックインした?あの男に言われるがまま鍵まで受け取って!」
「アステリオンは関係ないよ。空き部屋が無いか聞いたらあるって言うんだ、入らない方がおかしいだろ!」
「大体お前は…!」
「うるっさいよ、言わせておけばあんただって…!」
 一言ごとに激しくなる夫婦喧嘩がエントランスで始まっていた。
 少し離れたところで静かに見守る神父とホテルマンである。
 アステリオンは珍しくしょげていた。
「すまん。まずいことになる気はしたが、止める隙が無かった。俺がついていながら…あんた達に合わせる顔がない」
「気まずそうだったのはそのせいか。良かった」
「何が良いと言うのだ。俺の修行が足りんせいだ。早朝チェックでは確かに満室だったので油断した。まさか今朝からこれまでの短い時間でキャンセルが入るとは。当日キャンセルは100%課金だというのに客は一体何を考えて…くそっ、読めない!」
「物凄く悔しそうなところ悪いが、その反省は別に。それよりあいつらをなんとかせんと」
「…うむ。そうだな。よし、それくらいはせめて俺がおさめよう。おい魔鈴!」
 この「おい魔鈴」というラフな呼びかけがアイオリアの神経に触ったようだったが、アステリオンは気づいた気配も見せなかったし、アルデバランもこの際無視した。
「なんだい?こっちは取り込み中だよ!」
「少し落ち着け。お前らしくもない。いいか、ここは聖域ではない。五つ星ホテルだ。客には相応の振る舞いが求められるし、サクラなら尚更その義務がある。わかるか」
「っ、面倒だね」
「面倒でもやるべきことはやる。だろう?」
「…」
「神父に協力しにきたんじゃないのか」
「…そのつもりだよ」
「なら俺の言う通りにしろ。まず、お前は屋上のレストランに行って、アフタヌーンティーセットを注文する」
『なぜ』
「神父と旦那はちょっと黙っていてくれ。物事には順序というものがある。で、魔鈴、お前がいなくなった後に、神父の方は旦那が片付ける。それでいいだろう」
「…アイオリアがそれをまともにできると思わないけどね」
「そういう憎まれ口はやめておけ」
 魔鈴が黙る。
 アステリオンがそっと笑った。
「言いたいことは今度聖域に帰った時に聞いてやる。ここは俺の顔を立ててくれ。頼む」
「…あんたがそこまで言うと気持ち悪いね。わかったよ」
「大人しく迎えを待てよ」
「わかったって言ってるだろ」
 吐き出した言葉には腹立たしさと不満が満ち満ちていたが。
 床に叩きつけるようなヒールの音は、とりあえずレストランへと去っていったのだった。
 …
「…さて、それでアイオリア、あんたの方だが」
「任せろ。アルデバラン、外に出るぞ。ちょうど良い広場がある。神父として、今のこの俺のやり場のない怒りを受け止めてもらおう」
「そうだな。神父というか友人として、なんかそれぐらいはしてやらねばならん気がしたわ」
「ちょ、待てあんたらどこへ行く。神父を片付けるとはそういう意味ではないし、そういう意味ではないことを皆わかってると思っていたから魔鈴を諌めたのに、なぜ実はわかっていない!?」
「黙れ。わかっていないのは貴様のせいだ」
 俺が?とアステリオン。心外そうな声はエントランスに響き、衆目を集め、そして彼はかまわず続きを喋った。
「いや、悪いが俺はわかっている。自分に敵意を持つ者の心は反射的に読む癖をつけているからな。あんたが俺をぶっ殺したい理由も、俺に対してあらぬ疑いをかけていることも、とにかく全部読んだ。言っておくがな、俺と魔鈴は今は別になんでもないぞ。ただの同僚と言うだけだ。は?前がどうだったか?知るか、何がどうならどうなのだ。そういうことの基準は人それぞれだろう。うん?俺の基準ではどうか?それを聞かれると難しいな、少なくとも俺と魔鈴は…」
「お前少し黙ろうかアステリオン」
 むんず、という音が聞こえそうなくらい無理矢理に、神父の手が喋り続ける口を塞いだ。
 そのタイミングの悪さにはアイオリアからすら抗議の声が上がったようだが、アルデバランはそれすらも無視した。
「お前、猟犬座の聖闘士として読んだ心を軽々しく口にしないとか言わなかったか…?」
「時と場合によりけりだ。敵に対しては動揺を誘うため何でも言えと、師匠にも指導された」
「アイオリアは敵ではない!」
「いや敵だろう、だって」
「いいから!もういいから一旦黙れ!っていうか正直気づいてはいたが、お前実は割とよく喋る方な!?」
 サトリの法が使える上に意外と口数の多い恐怖の男アステリオン。
 彼が聖域で敬遠されていた真の理由が、アルデバランには見えた気がした。
「とにかくだ。アステリオンも、アイオリアお前も、ここは神父の俺に免じて本題から外れた争いは慎んでもらおう。俺たちが今解決しなければならばならない問題はなんだ?部屋どうするかだろう、違うか?」
「だからそれは二人が泊まればいいだけの話だろう?あの部屋のベッドはダブルでも三、四人は寝られる広さがあるし、俺が掃除とベッドメークしておいたから完璧今すぐ入れるし」
「鈍い俺でもそのベッドにアイオリアが寝たくない事だけはわかる」
「そんな些細な気分の問題どうでもいいだろう。無駄な要素全部省いて、単に寝たいか寝たくないかの問題なら、絶対寝たいはずだ」
「…まあそれは認める」
と、ここでまさかのアイオリア。彼は再び腕を組み、眉間にしわを寄せてはいたが、心なしか殺意は薄れているようで、
「心を読める奴相手に虚勢を張っても仕方がないからな」
「いやこれは別に読むまでもなく、男だったら普通にそう思うという範囲」
「また余計なこと言うなお前は…」
「だが事はもはや俺だけの問題ではない。違うか?」
「…ああ」
 指摘されたアステリオン。ため息とともに頷く。
「困ったものだな。魔鈴を巡って男が三人、か」
「は?ちょっと待て三人って何で俺まで」
「あんたが気づいてるとは読めなかったが、アイオリア、わかっていたか。アルデバランがあんた達の宿泊を快く思っていないことを
「それは当たり前にそうだが魔鈴は関係な…」
「アスガルドの時だったか。怪我をした男をわざわざ見舞いに行くなど、魔鈴にしては優しすぎると思っていた。俺などよりよほど怪しい」
「やめろおい!火の粉を全部こっちに被せる気か?俺は誓ってなんでもないわ!」
「あんたがなんともなくとも魔鈴はどうかな。見ただろう、アイオリアの前に鍵を突きつけたあのわざとらしい様を。実のところ、流れとはいえどうしてチェックインまでしたのかと少々不思議だったが、あんたの気を引くためだと考えれば説明もつく」
「ついてないなにも!」
「…なるほど。その線は正直全く考えてもみなかったが、言われてみれば確かに怪しい」
「アイオリアお前まで…!」
「フッ、そうだろう。読まないと言った以上、俺も魔鈴の心は読まん。故に、色々な可能性が考えられる」
「いや読めよ!今一番読むべきはそこだろうが!考えてみればそれを読んだら問題は何もかも片付くわ!」
「猟犬座の聖闘士としても男としても、一度宣言したことを嘘にするわけにはいかない」
「…ほう。それは中々見上げた心意気だな」
「だが『今日は読まない』と言っただけなので明日は読める。だから本日のところは泊まっていったらいかがか?」
「お前自分で何言ってるかわかってるか…?」
 脱力。アルデバランは骨の髄まで力が抜けた気がした。黙れという元気すら出て来ず、もうこの男どうしようという気持ちである。
 しかし対照的に、アイオリアは何かに感じ入ったようなのだった。アステリオンを眺める厳しい目に、先ほどまでとは違う光があった。
 しばし無言で考える。そして。
「…宿泊はキャンセルする。それでいいだろう」
「100%キャンセル料が発生するが?」
「今魔鈴が食ってる分とまとめて払う」
 財布を取り出し軽く放る。過たず、それはホテルマンの手の中に落ちた。
「そのくらいは男の務めだ」
 アステリオンはニヤリと笑った。
「…精算してこよう」
「全部持っていけ。迷惑料だ。仕事の邪魔をしたな」
「ああ、確かに邪魔だった。もらっておく」
「正直な奴だ」
 苦笑し、男はレストランへ連れ合いを迎えに行った。
 そしておそらくまたエントランスを通って出て行ったのだろうが、それはアルデバランとアステリオンの知るところではない。二人はこれ以上の面倒を避けるべく、いったんスパでサボることにしたからである。
「…俺はサボりではない。基地局としてちゃんとやってる
「俺はサボりだ。神父として何もしとらん」
「知ってる」
 輝くタイルが敷き詰められ、何かの神殿かと思うほどの荘厳さを醸し出しているサウナは二人が…というかアルデバランが入ったことによって見た目に暑苦しさが増したためか、先に入っていた客はみんな出て行った。
 アステリオンは苦い顔から汗を滴らせながら、
「せっかくサクラが来たのに活かしもしなかったしな…」
「どう活かせと。あれのどこがサクラだと言うのだ。ただの夫婦地雷だろうが」
「…どうだろうな」
「何が」
「アイオリアが魔鈴に惚れているとしても、その逆はわからんさ」
「アイオリアはいい男だぞ」
と、広い手のひらで汗を拭いながらアルデバラン。
 アステリオンはつまらなそうに、
「わかっている。俺はあんたよりあの男を知っている」
「そうか?」
「当然だ。あんたももう、聖域で俺が何をやっていたかくらい察しただろう。だったら、俺がアイオリアを放っといたはずがないこともわかるだろう」
「…」
 アルデバランは床を見つめる。
 逆賊の弟として。アイオリアはこの男と、そして『教皇』に見張られる立場だった。
 「サトリの法はどうでもいい」「心を読める奴相手に虚勢を張っても仕方がない」…あの言葉は、過去を通り抜けてきたからこその達観だったのかもしれない。
「…過ぎたこと、と言ってはいかんか」
「あんたは言えても、俺に言う権利はない」
「お前」
「アイオリアは一度も俺に怒りを向けたことがない。嫌ってはいるのだろうがな。ある意味で、一番俺を理解してくれていた…と言える」
 教皇を除けばと付け足した。
「…だから俺は、あの男にならいつ何度殴られても良いと思っている。別にそれが全然関係のない、痴話喧嘩のとばっちりだとしてもだ」
「無駄だな。アイオリアに殴る気はない」
「つまりそれは」
と、アステリオンは遠くから自分を断じるような目で、
「俺を赦す気もないということだ」
「そういうわけでは」
「いい。こんな話をしたいわけではないんだ俺は」
 蜘蛛の巣でも払うかのように手を振った。
「話を元に戻す。つまり魔鈴なんだが」
「俺はそっちの話の方が腹一杯なんだが」
「アイオリアみたいなよくできた男に、魔鈴は惚れない気がする」
「は?」
「姉貴堅気とでもいうか、あれは要するに手間のかかる奴が好きだ。面倒面倒言いながら、若干頼りにならない男の面倒を見るのがな。だから俺はあんたこそが本命だと思っている。どうだろう」
「黙れ」
 失礼過ぎる発言に、アルデバランも今度こそは力を込めてアステリオンをどつき倒したのだった。





ホテルグランデブルターニュ・ラグジュアリーコレクションホテルの日々は三週間を経過した。
まさかこれほど勤めるとは思っていなかったアルデバラン。最近はすっかりスタッフ業務も板につき、ネットのホテル評に「入ると見上げるような巨大な神父様…かと思ったらポーターさんでした笑 コワモテだけど実は親切!」などと一筆書かれる始末である。
「もう神父やめたのかあんた。職務放棄か」
「いや、やめてはいない。やめてはいないが、このままそっとしておいて欲しい」
 アステリオンの厳しいツッコミに視線をそらすのも完璧慣れた。
 そんな状態だったので、真夜中のシンタグマ広場に突如轟音が響き、敷石の一部が吹っ飛んで穴が空いたと聞いた時には、普通にテロかと思って飛び出していったわけである。
 1分後に土煙の中から現れたミロとカミュを発見し、1分半後には二人を神父服の下に隠してホテルに持ち帰っていた。
 そして2分後には。
「フル装備で何しに来て何をしおった貴様ら!!」
 鬼の形相で詰め寄っていた。
「いや、サクラをしに…」
 彼のあまりの剣幕に、ソファに座らされた犯人二人はやや引いている。
「アァ!?」
「お客様。ラウンジではどうかお静かに」
「あ、すまん…じゃない、端末!お前ちょっと基地局連れて来てくれ!」
 アステリオンは心なしか白い顔をして飛んできた。
 神父の前に並ぶ二人のキンキラキンを見て、
「…またあんたのお仲間か。どうするつもりだ、あれはまずいぞ」
「心の底からすまん!」
「既に消防と警察と軍隊が動き出したとニュースで速報が」
「軍隊!?」
「おい、待て。どういうことだ?俺たちはただサガから、ホテル前で軽く戦って神父が聖闘士話をするきっかけを作れと言われただけなんだが」
「何かまずかったろうか?」
「まずいわ阿呆!死人や怪我人でも出たら…」
「バカな、そこはいくら俺たちでも配慮している。人がいないタイミングを狙ってやったから、誰にもかすり傷一つ負わせていないはずだ。なあカミュ」
「問題はそういうことではない」
アステリオンの口調にはいささかの緩みも無かった。
「あそこがただのホテル前広場だと思うな。当ホテルの向かいは国会議事堂。あの爆音とクレーターは、間違いなく国を狙ったテロだと誤認される」
「何!?神父が聖闘士のせいだと言ってもダメか!?
「言わんぞ俺は!聖闘士がテロリストだと看做されたらどうする!」
「じゃあ私たちは何のためにあんな真似をしたのか…」
「こっちが聞きたいわ!」
 外からサイレンが聞こえる。報道ヘリの音も近づいて来た。色々ヤバい状況である。
「…よし、こうなったら」
 アステリオンが唇を噛んで言った。
「全部何か違う奴のせいにするぞ」
「…なんだと?」
「そこの二人は聖衣を脱いでくれ。コンシェルジュで預かる。代わりに今ベッドシーツを何枚かもってくるからそれを被って顔を隠し、ゴーストになれ。ゴーストとは何か?知るか。俺が今作ったよくわからない人類の敵だ
「お、おお。聞く前になんか答えてくれたな。礼を言う」
「そして二人で外の爆発付近をうろうろしてくれればいい。神父が倒しに行くから、適当に抵抗してから去ってくれ。広場の破壊に理由をつけ、神父を活躍させるとなるとこれしかない」
「いや俺の活躍はどうでも」
「だってあんたが仕事をしないと今後もこんなのが続々来るだろうが!」
「う…」
「魔鈴たちの失敗で教皇は後に引けなくなってると見た。何が何でもあんたに仕事をさせる気だぞあの人」
「…」
 迷惑すぎると思ったが、今その愚痴を言ってる場合ではない。
 アルデバランはパン!と手を打った。
「よしわかった!俺も神父だ、やってやる!要するに、ゴーストの講釈を適当に垂れながらこの二人を追い返せば良いのだな?」
「そうだ。悪と戦い神父が勝つ。それでこそ、あんたを雇ったこのホテルの面子も立つというもの」
「よし!」
「そしてそこ二人。敵役が嫌か?だが嫌でもやってもらう!」
「な、なぜバレた。一体何者だこのホテルマン…」
 アステリオンの存在を知らされていないらしいミロとカミュ。ひたすら困惑し、困惑したまま聖衣を剥がれてシーツ巻きにされた。
「この格好で外へ…」
「全身金色でここまで来たあんた達が言うな」
「おいアルデバラン、なんなんだこの男は。ホテルマンにしては接客態度が悪すぎる」
「お前らが一つも客じゃないからだろう。当然だ」
「…いや、待てミロ。眼鏡をかけているから気づかなかったが、この男、どこかで見た覚えが…」
「カミュ!ミロ!ぐずぐずしとらんで早く行け!騒ぎがどんどん大きくなる!」
 こうしてホテルマンの正体についてはうやむやのまま、「ゴースト」二人は夜のシンタグマ広場に舞い戻っていったのだった。


 こちらはアテネの中心部、国会議事堂前のシンタグマ広場です。付近に居合わせた人の話では、つい30分ほど前に突如爆発音が響いたとのこと。広場には大きなクレーターがあき、そして上空には煙が…
「あれはなんでしょうか!?」
 現地中継のリポーターの声が事件現場をつんざいた。
 その指差す方を見れば、宙に浮く白い影二つ。落ちたり浮いたりしながらクレーターの上にとどまって、不気味に衣を閃かせている。
 …要するに、延々と同じ場所で跳ねているわけであった。
「なあカミュ。本当にこんなんでいいのか」
 影の一つがもそもそ言う声は、大衆には届かない。もう一人のもそもそ声が返事をくれるだけである。
「他にないだろう。あるとしても今は思いつかない。この人だかりで他人を傷つけず不気味に振る舞うには、意味もなくすごい高さで跳ねるくらいしかやりようがない」
 シーツ覆面の隙間から覗くカミュの目もうんざりしていた。
「つまらんな。スカーレットニードルもなしか」
「廃人にならん程度なら、アルデバランには撃ってもいいのでは?」
「俺はあのホテルマンに撃ちたい」
「…やめておけ。得体の知れん奴だ。聖域で見かけたように思ったが、記憶が曖昧でな。もしかしたら冥界か、シベリアの朝市だったかも知れん」
「そうか。全然あてにならんな」
「すまん」
「あ、神父きたぞ」
 黒い服をなびかせて巨体の神父アルデバランが現れた。片手に持った聖書っぽい紙束がアステリオン作の台本だとは誰も知らない。跳ねている彼らをびしりと指差し、大音声で解説を始めた。
 ゴーストは迷える死者のどうのこうの!地獄よりの使いどうのこうの!全ての元凶なんのかんの!諸悪の根源なんのかんの!
「さあゴーストどもよ!かかってくるがいい!この…」
「アンタレス!!」
「!右に避けろ神父!」
 ズビシュビィィッ!!
 ミロの指先が間一髪アルデバランの脇腹をかすめて神父服を切り裂いた。
「ちっ」
「おま…!」
 そのまま両者体を翻し激突。手に手を掴んで組み合う、千日戦争体勢となる。
 同時に顰めた声で怒りの応酬開始。
「いきなりアンタレスとはどういうことだオイ!」
「お前こそせっかく来てやったのに演技とはいえあそこまで俺らをボロクソ言うことないだろうが!」
「あるわ!この広場の惨状見てみろお前!」
「つうか今横から口だした奴は誰だ?あれが無ければ確実にお前を仕留めていたんだが!?」
「台本を理解していないようだな…危ないところだった」
 ぎりぎりぎりぎり。
 両手の関節が鋼のように火花を散らし、軋む。
「おい、このまま本気で千日戦争する気か…!?」
「お前がスカーレットニードル全部食らって締めのアンタレスまで完食したら手を引いてやるわ!」
「それは手を引いたとは言わん!」
「臆したかこの…!」
「神父、上からくるぞ!」
 飛んできた声は二人共をはっとさせた。拳を解き後ろに跳び分かれた瞬間、凄まじい凍気が空を割る。
 ゴーストミロの衣装も神父の服も付近の報道陣もガチガチに凍りつく中、やった当人だけがふわりと着地して首をかしげ、
「…外したか」
「いやかなり当たってるぞ無関係の人間に!どうする気だこんな全員凍らせて!」
「は。そうか神父の解説を聞く人間がいなくなってしまった」
「そこではないわ!」
 しかしゴーストカミュはアルデバランの怒りをそれ以上意に介す様子は無かった。
 不満げに眉根を寄せて呟く。
「余計な声がするな…?」
「それはックシ!俺、もっ…気に、なっ…ックシ!
「ミロ、シーツだけでは風邪を引くぞ。何か着てこい」
「うるざいわ!っ、ごれでいい!」
 衣装の端を千切ってチン!と洟をかみ、
「俺もさっき邪魔をされた。文句の一つも言いたかったが、今はむしろ礼を言いたい。お前、俺まで巻き込む気で…」
「誤解だ。お前の攻撃に横槍が入ったので、確かめるため危険に撃った」
「ほう…で、もし最初のが空耳だったら?」
「闘いが終わっていた。それだけだ」
「…。お前にも一発いいか?
「帰ってからな。さて…」
 友人の恨みをこの上なく適当に受け流すカミュ。周りを見渡し、眼光が閃いた。
「うるさい奴は…あれか」
 だがその足が動くより一瞬早く、彼の前に巨体が立ちはだかったのだった。
「お前たちの相手は俺のはずだ」
「アルデバラン。聞かせてもらおう。あの、凍りついた人間をホテルに運び込んでいるふざけた男はなんだ?」
「感心な奴と言ってもらおう。お前の後始末のために、たぶんサウナで解凍する気だ」
「仕事内容はいい。だが、ただのホテルマンではあるまい。こちらの動きより早く声が飛んでいる。聖闘士の挙動を先読みするなどということは、少なくとも…。…」
「?どうしたカミュ」
「…まさか『猟犬』か?」
 同僚の鋭い眼に問われた時、アルデバランは努めて明るく振舞おうと苦しい笑みを浮かべた。
「随分な有名人だなあいつは」
「なるほどな。シベリアで見た覚えがあるはずだ。今は眼鏡で誤魔化しているようだが、あれをサングラスに変えて口髭をつければ…」
「どんだけ怪しい格好で張ってたんだ…」
「そうだ、それに顎髭と頬髭と付け鼻をつけて身長を削れば間違いない。あの時のスナイパーライフルの男!」
「すまん。お前の言うそれはもしかして別の組織の何かではないだろうか」
「おい、話についていけん。あいつがどうした?ホテルマンではないのか?」
「ミロよ、お前も聞いたことがあるだろう。猟犬座のアステリオン。白銀聖闘士だ」
「なに!?」
 ミロは驚愕に眼と口を開き、絶句してホテルの入り口を見やった。
「そうだったのか…!俺は全く聞いたことも見たことも無かったが、あの男がそうか!」
「何も知らんのにどうしてそこまで驚くお前」
「知ってたら別に驚くこともないだろうが?」
「いや、それはまあ、そう…か?」
 天然でたまに物事のアンタレスをつく男、ミロ。
「あいつがそれで、何か大した奴なのか?」
 話はゼロまで戻った。付き合うカミュは根気強い。
「猟犬座の聖闘士はサトリの法を心得ている。人の心を読むのだ」
「ほう。で?」
「…。で、お前の場合はたぶん、尾行されても気づきもしないし、深く尾行するほど危険人物でも無いしで大した接点は無かった」
「ああ、そういうわけで俺は知らなかったのか」
「ミロ、お前今すごく何か言われたぞ凄く」
「カミュはあいつが嫌いなのか?」
 すっかり攻撃的小宇宙を解いたミロ。辺りに意識のある人間がいないということで、鬱陶しい覆面も背中にはねのけてしまった。
 カミュも倣いながら、
「まあ、付き合いたくはない」
と言った。それから少し笑って、
「お前はなんとも思わなそうだな」
「心を読むだけで、別に記憶を読むわけではないのだろう?それほど恐ろしいとも思えんな。シャカなんか、人の記憶を勝手に改竄して地獄を見せると言うではないか。比べれば小者だろう」
「そこは比べる対象がな…だが虚構の地獄より平凡な真実が恐ろしい者もいるのだ」
「お前がそうか?」
「時によってはな」
 ミロはどうも納得しかねるというように首を振り、また洟をかんだ。
「…まあいい。それよりこれからどうする。俺はもう、やりあう気は失せた」
「私もだ。これ以上犠牲が出るのはしのびない」
「お前が言うな。…いいぞ。もうお前らは帰って」
と、疲れた顔のアルデバラン。
「後始末はこちらでつける。サガによろしく言っておいてくれ」
「サガは近日中にこちらに来るそうだ」
「何しに!?」
「どうした。怖いぞ顔が」
「いや、もうこれ以上本当に面倒やめてほしくて」
「言いづらいが、お前の神父がサッパリなので、自分で神父をやるしかないかという気になったらしい。悪く思うなと」
「悪く思うどころかほっとしたわ。そうか、良かった、初めからそうしていれば良かったのだあのクソが」
「…アルデバラン、お前、折角だからグレートホーン一発撃っておいたらどうだ。サガが来た時に爆発するとまずい」
「いい案だカミュ。今なら俺たちのせいにできるし、クレーターが多少でかくなってもバレんだろう。やっとけアルデバラン」
「…」
 額に汗一筋光らせた二人のゴーストの誘惑に、神父は負けた。
 アテネの空に、凄まじい爆音が轟き渡った。…



 ホテルに戻ると、ぐったりしたアステリオンがロビーのソファにのびていた。
 暖かい照明の下でも、肌が青白く透けて見える。
 なんと声をかけていいかわからず佇んでいると、うつろな目だけが動いてアルデバランを見やった。
「…疲れた」
「すまん。本当に」
「発案は俺だ。あんただけの責任ではない。ただ、役者が悪すぎたのが大部分の原因だとは思っている」
「ああ、もう、本当にそれもすまん」
 負傷者は全員助けた、とアステリオンは呟いた。
「死人が出なかったのは幸いだった。一応あれで、手加減はしてくれてたらしい。手加減してあの威力か…」
 ため息一つ。
 アルデバランは彼の傍に膝をついた。
「俺を助けてくれたようだな。お前の声がなかったら危なかった。礼を言う」
「…届いて良かった。あれ以上速く動かれると、俺の声は間に合わない」
「そうか」
「黄金聖闘士とは凄いものだな」
「ロクなことしとらんがな」
「あんたがそんな事を言ってどうする。見ていたぞ、グレートホーンを。あれは絶対、鉱山の採掘現場で役に立つ。あんたはここにいるよりもきっと…ダムとかゲホッ!ゴホォッ!」
「やめてくれやめてくれ今際の際の遺言みたいにこれ以上変な仕事を勧めないでくれ。折角神父からお役御免になろうという時に」
「なに?やめるのか?」
「ああ。サガが代わりに来ることになったそうでな」
「!?」
 がばっ!とアステリオンが跳ね起きた。教皇が、と声を上げかけてまた激しく咳き込む。
 アルデバランは慌ててもう一度横たわらせようとしたが、男は言うことを聞かなかった。
「あの人が来るのか!?」
 なんという顔だろう。人のこんなに激しい表情をアルデバランは見たことがない。
「俺は…っ!ぐっ!」
「おい、少し落ち着け。お前もう休んだほうが」
「いや、大丈夫だ。救助のために端末を動かしすぎただけで…フッ、こんな時に修行不足が露呈する。本当は端末一台の能力をもっとあげ、ルーターとして機能させてWIFI網を構築すれば俺本体にここまで負荷がかかることは無いはずなのだが…未だに成功せん。実力不足だ。黄金聖闘士との情けない差だな」
「いやたぶんお前のほうが絶対凄い」
「教皇が来るんだな」
「まずかったか。断るぞ嫌なら」
「いやいい!俺は…俺はあの人に会いたい」
 その時突然少年に戻ったかのように、アステリオンの声が細くなった。
 あの人に会いたい。
「だけど…」
 白い指がアルデバランの神父の服を強く掴む。体を丸めて、何かに耐えるようにしばし震えた。
 そして、
「なあ、アルデバラン」
 再び顔を上げた時、少年はまた歳に似合わぬ一人の男の表情に戻っていた。
「あんたに頼みがある」
「なんだ。なんでも言え」
「コンシェルジュに、さっきの奴らの聖衣が預けてある」
「…あいつら忘れていったか…」
「あれをカタにして、救助と手当とホテルの外壁修理の代金を聖域に賠償請求してくれ。できれば慰謝料も」
「お前ほんと凄いな色々」
「頼んだぞ。…なあ」
「なんだ」
「よかったな。あんた。帰れて」
 にっこり笑うと、アステリオンはようやくもう一度ソファに沈み込んで目を閉じた。
 規則正しい寝息が聞こえてくるまで、アルデバランはそこから離れることができなかった。
 白い指先がわずかに、神父の服に触れていた。




 翌日。ホテルグランデブルターニュ・ラグジュアリーコレクションホテルから、アステリオンの姿は消えていた。
 そしてさらに一昼夜明けて、サガがやってきたのだった。




「ご苦労だったな」
とぬけぬけと言う聖域最強の綺麗な面を、アルデバランは今なら全身全霊を込めてぶん殴っても良い気がした。
 エントランスを通り抜ける一般客がサガのカリスマ性に惹かれて軒並み振り返り、注目度が大変なことになっているが、そんなことは関係なかった。
「サガ貴様…っ!」
「悪かった。心から。過酷な任務をお前にさせてしまって申し訳なく思っている本当に
「馬鹿にしてるだろうが!!」
「していない…と言っても信じてもらえそうにないな。証言してもらおうか。アステリオンはどこにいる?」
「あいつなら消えた。一昨日」
「ほう」
 サガは一つ肩をすくめただけだった。
 アルデバランの胸の内に、また別の怒りが湧いてきた。
 入り口では目立ちすぎるのでロビーに移ったが、その短い間にも怒りはむくむくと大きくなっていく。
「サガよ。聞いてもいいか」
 革張りの最も豪華な椅子を当然のごとく選び、入ったばかりのスタッフに茶まで運ばせたサガは、アルデバランの唸るような声にも動じず微笑んだ。
「なんなりと」
「なぜ、ここにアイオリアを寄越した。カミュもだ。サクラを送る頃には、お前はもうアステリオンが居るのを知っていただろう」
「サクラを送る頃には…そうだな。あるいは、もしかしたら初めから知っていたかもしれんな」
「…なんだと?」
「反感を買うのを承知で弁解するが、聖域にあいつに会いたい奴などいない」
 サガは薄い笑みを崩さずに、残酷な事実を言ってのけた。
「知っている奴は敬遠する。知らせず行かせれば後で恨みを買う。黄金聖闘士は尚更でな。現にデスマスクやアフロディーテは拒絶反応が酷くて、無理に寄越せばアステリオンの身が危なかった」
「だったら何も黄金聖闘士でなくとも!」
「黄金聖闘士より下?それは…だが神父の一つもこなせない黄金聖闘士が後輩の晒し者になるのを、私は見るにしのびなかった…」
「うっ…だ、だからと言って何もアイオリアを!」
「シャカが来ても良かったのか?面倒だぞ?ホテルの客としては」
「うっ…ぐ…」
「誤解するな」
 悠々と茶を舐めて、
「アテナのご命令とはいえ、私が無理強いしたわけではない。アイオリアが行くと言ったのだ」
「なに?しかしアイオリアは気乗りがせず正直嫌だったと」
「そうだとしても、あいつは行くという男だ。だろう?」
「…カミュとミロは」
「あれはアテナのご命令ということで張り切りすぎて皆まで聞かずに飛び出した。ミロが悪い。カミュも後を追うしかなく、説明のタイミングを逃した」
「…」
「納得してもらえただろうか」
 隙のない笑顔。確かに、説明はできている。
 しかし、何かがムカつく。アルデバランは不快に歪んだ口元を直すことができない。
 サガはそれを見て、浮いていた笑みに苦味を加えた。
「…私は、お前に面倒をかけたことは本当にすまなく思っている」
 この表情は卑怯だ。
「俺のことはいい」
 ムスッとしたままなのは危うく情にほだされそうになった心への抵抗だった。
「しかし、もっと早く、アステリオンに会いには来れなかったのか?」
「私が?」
「お前がだ。待っていたぞあいつは。今は、どうしてか消えてしまったが…お前に会いたいと言っていた」
「そうか」
 サガはしばし物思いに耽るようにロビーのソファを見つめた。まるでそこに寝そべっていた猟犬の姿を知っているかのように。
 それから優しい口調で言った。
「では、アルデバラン、お前はどう思う?難しいかもしれないが想像してくれないか。仮に己が主に忠実な犬だとして…」
 ホテルから、その瞬間だけ音が消えた。
「自分を殺した飼い主を、それでもなお慕うだろうか?」






「お疲れ様でした」
十二宮の入り口で出迎えてくれた友の姿を見たとき、アルデバランはこの一月足らずで自分の心がいかに疲れていたかを初めて知った気がした。
「ムウ。水をくれ」
「奥へどうぞ」
 飲んで、少し落ち着いた。
「心配してくれたようだな」
「お役には立てませんでしたが」
「貴鬼をよこしてくれていたのだろう」
「始めのうちだけ。様子見を頼んだのですが、10日ほどで猟犬に…失礼」
 アルデバランの視線に悟って言い直す。
「アステリオンに捕まってしまいましたから。それ以後は何も」
「捕まった?あいつは何も言っていなかったが、見つかっただけではなかったのか?」
「初日に見つかって、それから今度は捕まって。二度と来るなと放り出されたそうです」
「…すまんな」
「あなたが悪いんじゃありませんよ」
 …
「なあ、ムウ」
「はい」
「お前も、あいつが嫌いか?」
「…。そうですね。会いたくは無いですね」
「そうか。そうなのだな、誰も」
「…」
「俺にはよくわからん」
 アルデバランは片手で眼を覆った。
「どいつもこいつも歯切れが悪い。ミロ以外。なんだと言うのだ。過ぎたことにはできんのか。サガに至っては、アステリオンを自分が殺したようなことまで言うのだ」
「殺したのでしょう」
 あっさりと、ムウはそれを肯定した。
「何を…!」
「十二宮の戦いの前哨戦です。あの男は魔鈴に瀕死の傷を負わされて聖域へ帰ってきた」
 教皇の元へ、最後の言葉を伝えるために。
「彼が辿り着く頃にはサガももはや白銀聖闘士に期待はしていなかった。生きるか死ぬかもわからぬ者を救うほど、当時のサガは優しくありませんよ」
 あの人に会いたい。
 けれど、会うのは恐ろしい。
「…今日、サガと差し向かいで話をしたが」
 アルデバランは知らぬうちに強く拳を握りしめていた。
「あれは、人を惹きつける力を持つ男だな」
「…そうでしょう。持つだけでなく、サガという人の魅力は常軌を逸して強いのです。何者も、断ち難いほどに」
 それが、教皇の鎖だ。
「アステリオンはどうしましたか」
「消えた。サガが現れる前に」
「そうですか…」
 ムウは瞑目して、それが良いのかもしれませんね、と呟いた。
「…嫌な話を聞かせたな」
「いえ。ああ、貴鬼が言っていたのですけれど」
 上へと去ろうとするアルデバランへ、ムウが声を励まして言った。
「貴鬼を捕まえた時に、アステリオンはあなたのことを託けたそうです」
「…なに?なんと」
「あなたに神父は無理だと」
「そんなことわざわざ言わんでも…」
「理由も」
 アステリオンは伝えたのだった。
 あの人を聖域に帰してやれ。
 あの人は、聖闘士の死を誰かの娯楽にできる人じゃない。と。
「…あいつが」
「神父って別にそういうものでもないと思うんですけど、まあ確かにあのホテルにおいては…」
 奇妙な音がムウを遮った。
「…アルデバラン?」
「あいつは、俺に良かったなと言ってくれた」
 音は、男の喉から漏れていた。
「帰れて良かったなと…それで、あいつは…」
「アルデバラン」
「あいつは、消えて…」
「アルデバラン、さあ」
 ムウは身を乗り出して友人の肩に手を添える。
 震えるのを抑えるように優しく。
「なにも、あなたが泣くようなことではないんですよ。アルデバラン、そうでしょう…?」
 全ては過ぎたことなんですから。
 誰にもどうにもできない事だったんですから。
 
 だが、涙は容易に止まらなかった。
 



BACK