どんなに月日がたとうとも、この痛みは決して拭われることはない。
今だって、まるで昨日のことの様に思い出すことができる。
不吉なほど濃い夕日に照らされた、血に染まった男の死体。その周りに無数に散らばったバラの花。
赤 赤 赤
何もかもがその人を狂わせるような色一色に塗りつぶされていた。
――――――先生!ダイダロス先生!!
男の亡骸に取り縋って、必死に名を呼んだ。
――――――嫌です嫌です!死なないで先生!!先生っ!!
虚しく宙に溶ける金切り声。
喉が嗄れるまで、泣いて泣いて泣きむせんだ。
だがそれを、「あの男」はうるさいといった。
軽蔑したような瞳で。なんの悪びれた顔もしないで。
――――――バラを散らすな。せっかく美しく殺してやったのに。
あの時、ジュネはこの島の土に誓った。
絶対に忘れるものか。
アフロディーテ。おまえをいつか殺してやる。
アンドロメダ島はデス・クィーン島とタメをはる地獄の島といわれている。
しかしここにも季節はある。根性さえ入れれば立派に暮らしていける。恩師亡き後、ジュネは墓守もかねて島に住み続けていた。
在りし日に共に学び、苦労を分かちあった友人達の姿はない。皆、島を捨てて去っていった。
ともすれば近隣の村の婆様方から、「伝統文化を守るため、島に残った感心なオナゴ」に見られがちなジュネである。
婆「ジュネちゃん、今日も精が出るのう。ほら、イモもってけ」
ジュネ「ありがとう、お婆ちゃん」
爺「なあ、ジュネちゃん。いい加減、その仮面取って顔見せてくれてもいいんでねぇか?」
ジュネ「悪いけど、こればっかりはできないのよ」
爺「残念だのぅ・・・」
週に一度、一番近くの村まで片道10Kmの距離を走りぬいて買出しにやってくるジュネに、人々は好意的だ。
「せいんとなんかやめちまって、オラとこの息子の嫁にきてくれねぇだか」。
そんなことを言ってくれる、親切すぎて迷惑な婆様もいる。
もちろんその場で断った。自分には、聖闘士として生きなければならない理由があったから。
いつか、アフロディーテを殺す。
そのためだけに毎日修行を続けていた。
ジュネ「先生・・・ジュネは必ずや仇を討って見せます!」
何度墓前に誓いを立て、幾夜その枕を涙で濡らしたことだろう。
いつか、必ず・・・!
そんなある日、風の噂で瞬がアフロディーテを倒したと知った。
ジュネの心中が、「やったね、瞬!」より、「やりやがったな、瞬!」だったのは仕方の無いことといえよう。
ジュネ「どうして!?何で倒すのあの子は!!いつだってそうなの大人しい顔しておいしいところは全部独り占めするのそういう男なのちくしょうーーーっっ!!」
目的を見失ったジュネはそれから数ヶ月、おさまらない気持ちを発散させるため岩を砕いたり大地を割ったりと暴れに暴れ、一人でアンドロメダ島の荒廃化を進めたが、やがて心の平静を取り戻すと新たな目標を見出した。
私も、ダイダロス先生のような立派な指導者になろう。
そして、二度とアフロディーテのような輩を出さないように、正しい聖闘士を育てよう。
まだ振り切れない思いはたくさんあるけれど、今はそのために日夜の修行をかかさないでいる。
八百屋「いらっしゃい!今日はなんにするかね?」
ジュネ「んーと・・・キャベツを一つ!」
八百屋「よし、ジュネちゃん可愛いから、ついでにトマトもおまけだ!」
ジュネ「ありがとう!」
人々の前ではジュネは普通の少女として生活していた。(仮面以外)。もし彼女が「私の特技は鞭打ちです」等といっても村人達は信じないだろう。・・・というか、信じたくないだろう。
ジュネ「じゃあね、おじさん!」
八百屋「気をつけてけよ〜」
鼻歌を歌いながら10キロの道を音速ダッシュで帰るジュネ。
今日は久しぶりに新鮮な野菜が食べられる。そんな些細なことで喜びを感じられる。
ただ、心のどこかでどうしようもなく申し訳ない気持ちがするけれど。
もしもまだアフロディーテが生きているなら、なんとしても、この手で・・・・
ジュネ「・・・でも、あれはもう終わったことだ。忘れなきゃいけないんだ、あのクソ男の事は」
何も知らない者が聞いたら、痴情のもつれと取られかねない独り言であった。
家が見えてきたとき、ジュネは同時に人影が戸口に立っているのにも気づいた。
?誰だろう?
訪ねてくるような人間の心当たりはとんと無い。昔の仲間だろうか。
人影はこちらを向いて待ち受けるように動かない。
風が吹いて、金色の髪が豊かになびくのが見えた。
ジュネ「・・・・・・・・・・・・」
胸がざわついた。
すらっとした長身。けぶるような金の髪。覚えがある。
覚えがあるが、そんな・・・まさか・・・・
だってあの男は死んだはず!
ジュネ「・・・・・・・・・・アフロディーテ・・・・!」
思い違いではなかった。青い青い抜けるような瞳が見えるまで近づいてからは、もう否定のしようが無かった。
こんなに綺麗な顔の男は、世界中に一人だけだ。
ジュネが立ち尽くすのを見てか、彼はゆっくりと口を利いた。
アフロ「久しぶりだな、娘」
ジュネ「・・・・・・・・・・」
アフロ「どうした?私の顔を忘れたか。それとも・・・」
かつて見た軽蔑の色が美しい唇に浮かんだ。
アフロ「・・・恩師の仇を相手に、恐怖で声もでないのか」
ジュネ「!!」
とっさにキャベツを投げつけた。
しかし、凶器と化した緑の野菜はアフロディーテに触れる前にはじき返され土に落ちた。
アフロ「愚かな。私がキャベツごときに倒れる男だと思っているのか?言っておくが、トマトも無駄だ」
第二弾を用意していたジュネを先んじて釘をさす。
アフロ「自分の拳でかかってきたらどうだ。私に近づくことができないのか?」
ジュネ「っ!馬鹿にするなっ!!」
土を蹴って少女は男に飛びかかっていった。繰り出す拳はことごとく空を切った。
アフロ「些細なことで逆上するものだな。聖衣も無しに私に勝てるわけが無かろう。待っていてやるから装備を整えてこい」
ジュネ「黙れ!!」
アフロ「黙っていてもいいが、ちっともあたらんではないか」
ジュネ「うるさいっ!!」
アフロ「・・・怒っているようだな。しかしその仮面ではよくわからん。私は君の顔を気に入っていたはずだが、さて・・・」
ジュネ「うるさいうるさいうるさ・・・・!!」
アフロ「確かめてみるか」
パン!
・・・・・・・何が起こったのか理解するのに数秒かかった。
ジュネはただ、音と同時に顔に強い衝撃を感じ、石の様に硬直した。
顔から仮面が落ちた。真っ二つに割られて。
裸になった目のまん前に白い手がかざされていた。指の間から緑色の針が突き出している・・・・いや、これは薔薇の茎だ。
薔薇で自分の仮面を割られたのだと、ようやく今、ジュネは理解した。
アフロ「・・・・・・動かない方がいい。私がもう少し手を近づけるだけで、この薔薇は君の額を破り脳を刺す。・・・顔に傷をつけたくあるまい?」
言われなくても動けなかった。眉の間に軽く当たった薔薇の茎が、背筋も凍るほどの殺気を発散していたから。
ジュネは瞬き一つできぬまま、じっと眼前を睨みつける。
アフロディーテが顔を寄せて手の隙間からこちらの顔をうかがうのが、目の端に写った。
形の良い唇がわずかにつりあがって、楽しそうにこう言った。
アフロ「ほう、あの時と同じ目をしている」
その瞬間、ジュネの脳裏に遠い記憶が流れ込んだ。
「いつかおまえを殺してやる!」
恩師の亡骸にすがり、敵を見上げて血を絞り出すような声で叫んだとき、冷酷に澄ましていたアフロディーテの顔に初めて一抹の人間味が浮かんだのだった。
柳眉をほのかに持ち上げ、彼は言った。
「私を殺す?・・・・フン、娘。できないことを口に出すものではない」
「今は笑ってればいい!必ず、どんな手を使ったって、先生の仇は私が討つ!!」
「ほう」
薔薇で口元を隠しておかしそうに笑うその姿に腹が煮えくり返った。
頭の芯が熱くなりまともに考えることができなかった。感情に押し流されるまま、ジュネは右手で一気に自分の仮面を剥ぎ取り、男の前に素顔をさらした。
女聖闘士が素顔を見られた時。それは・・・
「・・・私のこの顔にかけて、必ずおまえを殺してやる」
アフロディーテの顔からぬぐうように笑みが消えた。真っ直ぐな視線が、悪びれもせずにこちらを直視した。
「・・・・・・・なるほどな。・・・・君の名は?」
「ジュネ」
「覚えておこう」
男はもう一度微笑んだ。今度の笑みはもう、嘲りではなかった。
アフロ「・・・・あれきり、何の音沙汰も無いので忘れられたのかと不安だったぞ。首を長くして待っていた・・・・まるで恋でもしたかのように」
ジュネは喉の奥からようやく、怒りに満ち満ちたうめき声を押し出した。彼の口調に、はっきりとからかいの色を感じたのだ。
アフロ「あまりに君がつれないのでとうとう会いにきてしまったというわけだ。・・・・・さあ、殺してくれたまえ」
言われても、動くことができなかった。
しばらくの沈黙の後、アフロディーテが低く笑うのが聞こえた。
アフロ「すぐには無理、というわけか。・・・・ならばいつでもいい。私は君のそばにいる」
目の前で白い手がふわりと動き、視界の外に去った。とたんに緊張感が栓を抜いたように流れて消え、ジュネは思わず息をついたが、次の瞬間またも喉をつまらせた。
去ったばかりの男の手が、そのまま自分の髪をなぜたので。
アフロ「君との再会を祝す記念の一輪。受け取ってくれたまえ」
振り向きもせずにアフロディーテは言って、さっさと家に足を向けた。
ジュネは慌てて頭に手をやった。真っ赤な薔薇が指に絡んで落ちてきた。
歯軋りをして振り向くと、男は既に戸口に片足突っ込んだ状態で、思い出したかのように言い足した。
アフロ「そうそう・・・・・部屋を借りるから、よろしくな」
ジュネ「なっ!!」
ようやく声の出た瞬間だった。
・・・誰だってごめんこうむりたいだろう。大切な人を殺した殺人犯と一つ屋根の下に暮らすのは。
だが、たとえ「恩師の仇である」というメイン要素を棒引きした残りカスのような条件であったとしても、アフロディーテは迷惑極まりない客に違いなかった。
アフロ「何だ、この布団は。見るからに安っぽい。中身は何だ。干草?冗談ではないぞ、グースの羽毛布団ぐらいあろうだろう。なに、無い?・・・仕方ない、ならばリネンのシーツをよこしたまえ。・・・・なに、それも無いだと!?一体どこに寝ろと言うのだ!」
ジュネ「文句があるなら寝なくていいよ!!どこなりとも出てって野宿すりゃいいだろう!?」
アフロ「愚かな。私のこの美しさが伊達の努力で保てると思うか。肌に触れるもの全てに気を使う!それが真のスキンケアというものだ。君のような吹きっ晒しのガサガサの40肌とはわけが違う」
ジュネ「うるさいわこのナルボケ野郎!!」
つい30分前まで完全に威圧されていた男相手だが、ジュネも結構言う。
ジュネ「ちょっと!なに人の買い物袋あさってるのさ!」
アフロ「固いことを言うな。君の買い物は私の腹にも納まるものだ。チェックせねば、妙なものを食わされてはたまらんからな」
ジュネ「あんたに料理作ってやる義理なんか無いよ!」
アフロ「腕に自信が無いのか?・・・・む、これはさっき君が投げたキャベツではないか。一度地べたに落ちたものを食うのか?犬でもあるまいし。捨てたまえ。大体、キャベツを投げて攻撃とは人を馬鹿にするにもほどがある」
ジュネ「ここじゃあらゆる食べ物が貴重なんだ!捨てるなんてもったいないだろう!?そしてあのキャベツ攻撃とあんたのバラ攻撃にどれだけの差があるのか言ってみな!食えるだけキャベツの方がマシだよ!」
アフロ「・・・・・。こんなしなびた野菜など豚の餌と変わらんな。君が料理するのでは豚のほうがマシなものを食っていそうだ」
ジュネ「黙れ!私の料理を食べたこともないくせに、勝手なことを言うな!」
アフロ「食わずとも見るからに下手そうなのはわかる」
ジュネ「ああそう!じゃあ上手だったらどうする!?一ぺん食べてみな、ギャフンと言わせてやるから!」
かくして間違いなく不本意なはずだが不本意であることにすら気づかないで、ジュネは腕によりをかけ晩飯を作った。
できたものをダンッダンッダンッ!!と力いっぱいテーブルに並べると、
ジュネ「食え!」
アフロディーテは大人しく食った。
アフロ「・・・・・・・・・・。・・・・・ジュネ」
ジュネ「なに!?」
アフロ「ギャフン」
・・・・・・・・・・・・・・・・
ジュネ「いっ、今さらそんなこと言ったって・・・・言ったって、おかわりなんかあげないよ!」
アフロ「それは残念だ」
アフロディーテは澄まして皿を綺麗にあけた。
風呂の段になると事はさらに大変だった。
アフロ「水が汚い!石鹸が無い!シャンプーも無い!この私に・・・このアフロディーテに、米ぬかで体を洗えと言うのか!?」
ジュネ「髪は灰汁で洗うのさ。文句言うんじゃないよ、牛の小便で頭洗う人だっているんだから」
アフロ「信じられん世界だ・・・・・」
目の前の五右衛門風呂を見ながら彼は絶望的な表情で、
アフロ「シャワーも無いのか?」
ジュネ「あるわけないね」
アフロ「だが、こんな薄汚い湯に入ったらなにが何でも後で体をすすがなくてはなるまい?」
ジュネ「タオルで拭けば平気」
アフロ「君はそれでも女か!?風呂といえば無色透明かバスオイルで乳白色の湯に決まっている!」
ジュネ「これは泥パックが溶けてるとでも思えばいいじゃないの。グダグダ言わずにさっさと入れ」
五右衛門風呂の洗礼を受けると、さすがのアフロディーテもいささか悄然となった。
アフロ「・・・・・・早いところ殺してくれないか?こんな毎日が続くのかと思うと胃に穴が開きそうだ」
ジュネ「後半部分は私の台詞だよ。なにが楽しくてあんたと同居しなきゃいけないんだ」
アフロ「だからさっさと殺せといっている。できるものならな」
ニッと生意気な笑いを見せ付けられると、ジュネの頬が再び熱くなった。
そうだ、仇を討つのだ。風呂の世話まで見てる場合ではない。
しかしアフロディーテを睨みつければ睨みつけるほど、この男には寸分の隙も無いのだと認めざるを得なかった。
どこから飛び掛っていけばいいのか見当もつかなかった。
アフロ「・・・・先に休ませてもらう」
しばし、ジュネの出方を待つように黙ってそこに居た後、アフロディーテはそう言って自分の部屋へと姿を消した。
寝込みを襲おう。・・・と、行くところまで行き着いてしまった案をジュネが出したのはアフロディーテが寝室へ去ってから一時間ほどしたころだった。
卑怯とか聖闘士の風下にもおけないだとかの道徳観念はもはやどうでもいい。今しかないのだ、殺るったら殺る。
さらに一時間ちかくを辛抱強く待ち、とっぷりと夜が更けるのをまってから彼女は動いた。
得物の鞭を片手に握り締めて抜き足差し足忍び足。一応ドアに耳を押し付けて中の様子を伺ったが、何の物音もしなかった。
間違いなく眠っているのだ。ジュネはごくりと唾をのみこんだ。
そしてドアを、そっと・・・・・開いた。
ジュネ「・・・・・・・・・・」
真っ先に視界に飛び込んできたのは、きっちり首までの深さがある物凄い数の薔薇で埋め尽くされた部屋だった。
・・・・部屋というか、もう薔薇しか見えない。
見渡す限りに仇の姿は無く、おそらくこの薔薇の海のどこかに埋まっているものと思われた。
馬鹿じゃないのかあの男。
率直な感想がジュネの頭に去来した。
もしもこの薔薇が生花でなくドライフラワーだったら、彼女は間違いなく火をつけたことだろう。
ジュネ「何考えてるんだっ・・・・!!」
広大な海を掻き分けて相手に気づかれぬように探し出すというのは不可能に近い。かといってこのまま引き下がるのも忌々しい。
殺せないにしてもせめて一言言いたかった。「部屋片付けろ」。
むっと香る薔薇の匂いの中、ジュネは立ったまま有効手段を考え続け、しかし一向に上手い一手を考え付けず、時間ばかりが経過した。
・・・・・我に返ったのはどれほど経ったころだろうか。
彼女はふと、気づいたのだった。
いつのまにか、自分の体が完全に痺れてしまっていることに。
・・・・・・目を覚ますと翌朝になっていた。
アフロ「おはよう」
ジュネ「・・・・・・・・・・・」
頭はまだぼんやりしていた。それでも、自分がベッドの上に寝かされていることはわかったし、目に映る物から、ここが自分の部屋なのだということもわかった。
アフロディーテが完全に馬鹿にしきった顔で見下ろしていた。
アフロ「君ほどのマヌケも珍しい。わざわざ自分から薔薇の毒香を吸いに来るとは、新手の安楽死でもしたかったのか?」
ジュネ「・・・・・・・・!」
言い返したかったが舌先はまだ痺れていて上手く言葉にならなかった。
アフロディーテはその様子を見て、
アフロ「知りたそうだから教えてやろう。倒れた君を助けてやったのが私、ここまで運んできたのも私、人工呼吸で息を吹きかえさせてやったのも私、パジャマに着替えさせてやったのも私だ。礼を言え」
ジュネ「ちょっろまれ」
舌が痺れているとかいってる場合ではなかった。
ジュネ「あんらが着替えさせらっれ!?」
アフロ「そうだ。私が君を脱がせて着せた」
ジュネ「殺ス!!!」
アフロ「なぜ?別に何の下心も無いぞ。君の貧相な体に私が興味を持つとでも思ったのか?心外極まりない。私の美意識はもっと崇高なものだ。ラクダの腹巻を巻いた女など範疇外も甚だしい」
ジュネ「!!見らなーっ!?;」
アフロ「見たとも、見たくもないものを。被害者はむしろ私だ。しかし服に染みた薔薇の移り香だけで十分有毒なのだから仕方あるまい。あのままほっといたら、君は今頃死んでたぞ」
ジュネ「いっそ死にたいわ!そんなん見られるぐらいなら!!」
アフロ「恩師の仇を討つのだろう?あんなところで死んでどうする」
ジュネ「うるさいっ!!」
ジュネは力いっぱい寝返りを打ってアフロディーテに背を向けた。眼に涙がにじんできた。
悔しい。あんまりだ。なんという下劣な男だろう。
しかしそこでもう一つ、「人工呼吸」という言葉を思い出したので物思いにふけってばかりもいられなかった。
ジュネ「・・・・・・・・・ちょっと」
アフロ「ん?」
ジュネ「人工呼吸・・・・ってまさか、口でやったんじゃないだろう・・・・・?」
アフロ「もちろん口だとも」
ジュネ「あんたねえええええええっ!!!!」
アフロ「何か問題があるのか?・・・ははあ、キスか何かと混同しているようだな。言っておくがキスならあんなに渾身の力を込めて吹いたりせんぞ。むしろ吸う。こんなことで逆上しているようでは、まったくもって子供だな」
ジュネ「最低っ!!人の・・・・人の寝込みを襲ってっ!!」
アフロ「人聞きの悪いことを言うな。もともと襲いに来たのは君のくせに」
ジュネ「襲うの意味が違うわああああっ!!!」
アフロ「どうだかな。まあ、色香で惑わすつもりだったとは思わんぞ?いくら君が身の程知らずでも敗北決定なぐらいは私を見ればわかるはずだ。こちらの方が圧倒的に美人だからな。どこから誰がどう見ても」
ジュネ「私はあんたを殺しに行ったんだっ!!!」
アフロ「そして出来なかった」
ジュネ「!・・・・・・」
アフロ「見た目でも力でも君は私に敵わない。それでよく仇を討つなどと言えたものだ」
アフロディーテの声は始終一貫して変わらなかったが、その台詞ばかりはジュネの耳にあまりにも冷酷に響いた。
返す言葉が無かった。
アフロ「腹巻のことよりも唇のことよりも、君が絶望すべき問題は他にあるのではないかね?恩師を殺した人間に命を救われて、情けないとは思わないか?下らないことばかり気にしている。失望したぞ、君に会いになど来なければよかった」
言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。痛みが涙となって瞳からこぼれた。
何か言い返したかった。何か。一矢だけでいい、報いたかった。
アフロ「・・・・・・返す言葉もないようだな。結局、口でも君は私に負けたと言うわけだ。勝てるものなど何一つ無い」
ジュネ「・・・・・・・・・・・」
アフロディーテが踵を返すのが感じられた。ジュネがゆっくりと頭をもたげて見ると、そこにあるだけで華やかに見える姿が今にも戸口から出て行くところだった。
とっさに口から言葉が出た。
ジュネ「年増」
びくっ!!
アフロ「・・・・・・・・誰が年増だと?私はまだ22だ」
ジュネ「・・・そう?私は十代」
アフロ「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
勝った、と思ったジュネだった。
ジュネ「はい、お待ちどうさまっ!!」
ズバッシャア!!
アフロ「ありがとう。目玉焼きはまだかね?」
ジュネ「できてるよっ!!」
ベシっ!!
アフロ「・・・・あまり力任せに放るものではない。黄身がつぶれるではないか」
台所から立て続けに飛んでくる煮えたぎったスープや卵からひらりひらりと身をかわし、必要分だけ確実に空中でキャッチしながらアフロディーテはぶつくさと文句を言った。
床とテーブルは惨憺たる有様になっても、彼の周囲だけは無傷である。
トーストは軽く皿で受け、こめかみを狙ってきたリンゴをフォークで止め、沸騰したミルクについては「それはいらん」といち早く皿を投げつけて届く前に飛散させた。
優雅な朝食は進む。
アフロ「昨日は全ての食料が貴重だと聞いた気がしたが、空耳だったようだな」
ジュネ「あんたを殺せるなら何を払ったって惜しくないよ!」
アフロ「・・・・・目玉焼きぶつけられて死ぬ奴もいなかろうが・・・」
ジュネ「おあいにくさま。日本では豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ人がいるって瞬が言ってたんだから!」
アフロ「騙されてるぞ、君・・・・」
かつて戦った相手の名を聞かされたことは、男の記憶を少しばかり揺さぶったようだった。
誰ともなしに呟いたのをジュネは聞いた。
アフロ「アンドロメダ、か・・・・」
ジュネ「悔しい?あの子に負けて。悔しいだろうね、歳の差だけなら大学生が小学生に実力で負けた感じだものね」
アフロ「それは私に限ったことではない!君はしらんだろうが、双子座のサガなど28歳で14歳に負けたのだ!社会人が負けたことを考えれば、私ぐらいがなんだ!」
ジュネ「・・・ひょっとして物凄く弱いんじゃないの黄金聖闘士って・・・・?」
アフロ「私に敵わぬくせに生意気なことを言うな。アンドロメダだって、所詮はまぐれに過ぎん」
ジュネ「違う!あの子はやるときはやる子だった!実力で勝ったのさ!ここで修行していたときからずっと優しい子だったけど、本当はすごく強かったんだから!!」
ジュネは思わず一気にまくしたてたが、その頬は明らかに薄い色に染まっていた。
アフロディーテの眼がちょっと大きくなる。
ジュネ「先生だって、瞬には底知れない力があるって言ってたし、それにそれに・・・!」
アフロ「・・・・ひょっとして」
ジュネ「なに!?」
アフロ「君はアンドロメダに気があるのか?・・・・む、赤くなったな。図星だ」
ジュネ「う、うるさいよ!悪い!?」
アフロ「悪くは無いがかなり意外だ。私はてっきり、君がダイダロスの情婦だと思って」
ジュネ「ちょっと!!」
アフロ「残念だ。心の中でロリコン扱いしてダイダロスをいびるのが快感だったのに」
ジュネ「・・・あんたも暗い楽しみ方してるね・・・。って、そうじゃなくて!先生を侮辱するな!大体、先生はまだ19歳だったじゃないのさ!ぎりぎりだけどロリコンなんかじゃないよ!」
アフロ「19歳!?」
椅子を蹴立てたアフロディーテ。顔から血の気が引いている。
アフロ「馬鹿な!あの顔で19だと!?嘘だ!30過ぎてなければ認めん!!」
ジュネ「そんなこと言われても;」
アフロ「あのド老け顔が私より年下・・・・世の中なにかが狂ってる・・・・」
ジュネ「そこまで言われる先生って・・・;ていうか、狂ってるならあんたも同じだろう!?瞬に殺されたはずなのになんで生き返っているのさ!」
アフロ「黄金聖闘士の特権だ。フッ、言っただろう、君がつれないので会いに来たと」
ジュネ「・・・・・・本当のところは?」
アフロ「死んでいるのが暇だった」
ジュネ「そんな理由が通るかああああっ!!!!先生の死をどうしてくれる気よあんたっ!!」
アフロ「生き返らないのはダイダロスの根性が足りんからだ!本気で現世に未練があったら魂だけでも復活するわ!現に私の同僚(山羊座)など、死後に何回紫龍とコンタクトとったことか!」
ジュネ「先生を馬鹿にするなって言ってるだろう!?」
アフロ「本当のことを言ってるだけだ!死んだらすぐに生き返る、が高級聖闘士の基本!それができん奴だからダイダロスは所詮白銀止まりだったのだ!」
ジュネ「死んだら死んだままなのは当たり前だよ!ひょいひょい生き返るほうがどうかしてるんじゃないの!?そんなの、単にあんた達が下等生物で再生し易いってだけだろう!!切れた金魚がくっつくのと同じで!!」
アフロ「おい、聞き捨てならんぞ。この私が金魚と同レベルだと?」
ジュネ「むしろそれ以下!」
アフロ「おのれ小娘、人が大人しくしていればつけあがって・・・・!表へ出ろ!」
ジュネ「望むところだよ!」
・・・・・・・・・・決着がつくまでには10分もかからなかった。
ジュネ「い・・・・っった・・・・・っ」
アフロ「話にならんな。弱すぎる」
地に這いつくばったジュネの胸座をつかみ、足が宙に浮くまで持ち上げて、アフロディーテは激しい感情を込めた眼差しで彼女を睨んだ。
歪んだ唇から、不思議なほど怒りのこもった言葉が漏れた。
アフロ「一体君は本当にダイダロスの仇を討つつもりがあるのか?私が来るまで何をしていた。こんなことでは到底勝つことなどできんぞ」
ジュネ「っ!」
アフロ「これが君の実力か?それとも手を抜いているのか?まさか昨日の今日で仇に情が移ったなどとぬかすつもりではあるまいな。そんなことになろうものなら即刻私がこの手で殺す」
ジュネ「誰が・・・・・うぬぼれっ・・・・・!」
アフロ「この島の聖闘士は皆腑抜けばかりだ。奇麗事ばかりを並べ立てて都合のいい想像ばかりして現実を見ようとしない。君も所詮、都合のいい夢を見て私を倒せる気になっていたんだろう。違うか」
ジュネ「・・・・・・・」
アフロ「それがダイダロスの教育というやつだったわけだ。夢想家ばかりを育て上げた、あの男は正真正銘の愚か者だ」
ジュネ「!!」
ジュネの喉から憎悪の叫びが上がった。彼女はもがき、渾身の力を込めて男の腹を蹴り上げた。
目の前の柳眉がわずかに歪んだ。
ジュネ「先生のことを何も知らないくせに・・・・っ!」
アフロ「なら君は私達の何を知っていた?」
ジュネ「悪に加担した卑怯者だってことは知ってたさ!」
アフロ「私が卑怯者だと?笑わせるな、卑怯なのはそれこそダイダロスの方ではないか」
ジュネ「なにを・・・・」
アフロ「彼は教皇を悪だと思っていたようだが、それならなぜ自ら戦わなかった?こんな地の果てにコソコソ隠れて野良犬を拾っては自己満足に浸っていた彼のどこが偉大だと?自分の手を汚さずに、いつか育てた野良犬が教皇を噛んでくれるかもしれないとそればかりを期待していた奴のどこが人格者だというのだ?教皇に従ったのは私の信念だ。私はそれを貫き通した。ダイダロスを殺しに来たのも信念に従ったまでだ。そして戦って私が勝った。何が悪い?聖闘士とはそういうものではないか」
ジュネ「・・・・・・・」
アフロ「君は私を悪だというが、それはなぜだ?教皇は立派に地上を治めていた。アテナが降って沸いたおかげで突然悪と呼ばれ、多くの者が離反したのだ。私は未だにアテナが救いの女神だとは思わん。女神ならばまずサガを救ってくれたはずだからな。彼女はしゃにむに自分の椅子を取り戻そうとしただけだ。そんな小娘をどうして信じられる」
私は何も後悔していない。反省することもない。教皇についたことも。ダイダロスを殺したことも。
アフロ「アンドロメダは私に謝れと言った。ダイダロスに詫びろとな・・・馬鹿馬鹿しい、誰がそんなことをするものか。臆面も無く身勝手なことをほざくあの小僧、虫唾が走るわ。自分ばかり綺麗面をして、大義名分振りかざして、正義の使者のように振舞って私に謝れだと!世間知らずのガキが何様のつもりだ、絶対許さん!」
ジュネは自分の胸座をつかむ手に、青い血管が浮き上がっているのを見た。こちらを射すくめる真っ青な瞳は火花でも散らしているかのようで、膨れ上がる相手の殺気に思わず慄かずにはいられなかった。
瞬がこの男を倒したなんて何かの間違いではないか。
大都市のど真ん中に素っ裸で放り出されても、これほど心細い無力感は味わうまい。そのぐらいアフロディーテの前では自分が卑小に思えた。
アフロ「・・・・・・君はそんなことは言うまいな?正義のために私と戦うなどと。・・・・どうか言わないでくれたまえ」
男は最後にそれだけ囁くとジュネの体を投げ落とした。
じっとりと汗ばんだ手のひらに、島の土が熱かった。
力と理論と迫力と、3拍子揃ってジュネが負けてから後3日間は何事もなく経過した。
本当に何も無く。
なぜならジュネは自室にひきこもってハンガーストライキを決行したからである。
固く閉ざされた扉は無言のうちの絶交・断絶・面会謝絶を物語り、彼女は部屋の机に突っ伏したまま声一つ発せずに3日3晩を貫き通した。
もちろん、アフロディーテには相手にされないだろうことは覚悟の上である。
・・・・と思っていたのだが、どうしたことか薔薇男はストライキ初日の夜で早くも気になりだしたようであった。
アフロ「・・・・ジュネ」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「怒ったのか?」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「図星をつかれたからといって一々拗ねるとは、君も本当にお子様だな」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「さっさと出てきて君がスープをぶちまけた床ぐらい掃除したまえ。カビが生えるではないか。汚らしい」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「ジュネ」
ジュネ「・・・・・・・・」
ドアの外から聞こえてくる声に徹底的に無視を続ける。
すると翌日には若干の歩み寄りが見られ始めた。
アフロ「床は掃除しておいた。ありがたく思え」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「礼ぐらい言ったらどうだ」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「おい、私もそんなに長くここに居るわけではないのだぞ。仇討ちはどうした」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「ダイエットのつもりなら、無駄な努力はやめたまえ。どうせ後になってリバウンドで戻るのだ。大体、女が痩せるときには胸から削れるものだしな。君の体型で胸まで無くなったら見るところが無いぞ。絶望的だぞ」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「ジュネ。出て来い」
ジュネ「・・・・・・・・」
そして3日目の夜。
何の前触れもノックも無く、突如ドアが破砕された。
ゴガァ!!
ジュネ「!?」
アフロ「ジュネ?ああ良かった。生きてたか」
ジュネ「ちょっと!何のつもり!?」
アフロ「あんまり返事が無いので、ひょっとしたら首でもつっているのではないかと思ったのだ」
白々しい。
ジュネ「出て行け!」
アフロ「そうはいかん。ようやく口を利いてくれたのだ。もう少しゆっくりしていこう」
ジュネ「だったら私が出て行くよ!」
アフロ「待て」
すれ違おうとしたジュネの目の前に腕が突き出される。構わず進んだらこの男はきっと抱きとめるだろう。
それだけは嫌だった。ジュネは足を止めた。
キュルルルル・・・・
アフロ「・・・・・・何を怒っている?」
ジュネ「そんなこともわからないのかい!?」
アフロ「原因はわかる。しかし何に怒っているのかはわからない。君は私に怒っているのか?それとも自分に怒っているのか?」
ジュネ「!・・・・」
アフロ「君にもわかっていないのか。3日も一人で閉じこもっていたろうに。・・・・・無駄に時間を使ったものだ」
ジュネ「・・・・・・・」
アフロ「まあいい」
と、アフロディーテが言った。それは意外な一言だったので、ジュネは思わず相手の顔を見上げた。
ギュルル・・・・キュ〜・・・・
アフロ「そのうちにわかるときもくるだろう。どちらにしろ今の君にはもっと必要なものがある。・・・・それは」
グ〜キュルルルル〜
アフロ「食べ物だな」
ジュネ「うっさい!!」
鳴り止まない腹を心から恨みつつ、赤面したジュネは怒鳴った。
冷蔵庫はカラだった。
アフロ「私も育ち盛りの男だ。あの程度の食料はぺろりといける」
ジュネ「威張らないでもらえる・・・・?血管切れそうだから」
自分のストライキ中に食料を食い尽くされたことにより、ジュネの殺意は一層高まったが、ともあれ無いものは食えない。
買出しに出かけた二人である。
・・・が。
八百屋「お!ジュネちゃん!なんだい、その人、ジュネちゃんのコレかい?」
ジュネ「いっぺん死ねっ!!」
最初の店で、冗談紛れに親指立てた親父をジュネが本気で殴り倒しかけたので、あまり平和なショッピングとは言えなかった。
アフロ「やめたまえ。どうして君が怒る。分不相応なのと一緒にされて、迷惑なのは私のほうだ」
ジュネ「あんたも死ねっ!!」
アフロ「暴れていないで買い物を済ませようではないか。ええと、おやじ、そこのドリアン一つ」
ジュネ「要らないよそんなもん!高いばっかりで腹の足しにもならないじゃないか!大根とネギと芋だよ芋!!」
アフロ「うあ・・・聞くだけで貧しい食事になりそうだ」
八百屋「おいおい、本当に二人一緒に住んでるのかい?なるほどなあ、ジュネちゃんが見合い話を断るわけだ」
アフロ「なに?ジュネ、君には見合い話など舞い込んでいたのか?そんなことは一言も聞いていないぞ。どこのどいつだ?」
ジュネ「あんたに話す必要ないよ!」
八百屋「安心しなよ、お兄さん。見合い相手っつっても、あんたの方が格段にご面相が上だからさあ。こんな恋人がいれば、そりゃあジュネちゃんもそこらの男を相手にする気はしねえわな」
アフロ「フ。まあ当然だな。私のことをすっぽかして勝手に幸せになってもらっては困る。男にうつつを抜かすなど断じて許さんぞ、ジュネ」
八百屋「いやいや、こいつぁ当てられちまうね。ハッハッハ」
ジュネ「・・・・・・・・・(怒)」
八百屋を後にして。
アフロ「・・・・罪も無い冗談では無いか。何も失神するまで殴らなくても」
ジュネ「元はといえばあんたが原因でしょあんたがっ!!分不相応なのと一緒にされて迷惑とか言ってたくせに、調子付いて話あわせてんじゃないよ!!」
アフロ「ああいう手合いは軽くあしらっておけばよいのだ。それに私はペガサスの小僧に『あれで男かよ』とか言われた過去を持つ。あのド失礼なクソガキ・・・まあそんなこんなで、まっとうに男として扱われるのがやや心地よかったり」
ジュネ「あんた個人の問題で私を利用するんじゃないっ!!今度の店で妙な誤解されるような発言したら本気で首くくって死んでやるから!!」
アフロ「気をつけよう」
しかし、滅多なことを言わなくても話題に飢えた島の住民にとってはジュネが男と二人で晩飯の買出しに来ているという事実だけで十分だったようで、その上アフロディーテがもともと人の目を引く容姿なものだから、二人はどこへ行っても注目の的。似たような誤解をうけるはめになった。
おばさん「あらぁ、ジュネちゃん。その人彼氏?」
バシィっ!!
おじさん「やあジュネちゃん。ん?そっちの人は・・・」
ビシぃっ!!
子供「あー、お兄ちゃんの方が綺麗・・・」
げしっ!!
アフロ「・・・私が口をさしはさむまでも無いようだが・・・少しは虚しくならないのかな?特に3番目」
ジュネ「ならない!」
アフロ「子供は素直なものだ。殴ったところでそれは大人の理想の押し付けに過ぎんのだぞ」
ジュネ「何いきなりもっともらしい教育論展開してるのあんた!」
アフロ「道を変えようではないか。人通りの多いところを歩くと被害が増える一方だ。他に人気の無い通りは無いのか?」
ジュネ「海沿いの回り道があるけど、そっちに行くとデートみたいだから嫌だよ!」
アフロ「・・・考えすぎだと思う。それとも私を意識している証拠か?」
ジュネ「なっ・・・!」
アフロ「照れているのだな」
ジュネ「違う!」
アフロ「ならかまうまい。人のいない道を通ろう」
ジュネ「っ!」
押し切られる形で、ジュネはその道を案内するはめになった。
何も一緒に歩く必要など無いのだ、別々に帰ればよかったのだと気づいたのは、町をはるかに離れて海を見下ろす崖の傍まで来てしまってからのことだった。
日が沈みかけていた。
アフロ「夕焼けか。・・・・・あの時のようだな」
と、アフロディーテが言った。ジュネははっと緊張して彼を睨んだ。
赤い日にさらされた男の横顔は信じられないほど美しかった。海からの風が金の髪を攫い、手放しがたそうに一本一本の隙間まできらめかせ、吹き抜けていく。
どうしてこの男は戦う道を選んだのだろう。他にいくらでも生きる道があったはずだ。
聖闘士などにならなければよかったのに。彼さえ聖闘士にならなければ、ダイダロスが殺されもしなかったのに。
そう思うと、もう何もかもが憎くてたまらなかった。
ジュネ「お前なんか、いなければよかった・・・!」
唐突にジュネが吐き捨てたのを、アフロディーテはまるで予測していたかのように穏やかに受け止めた。
アフロ「残念だったな。私は、いてしまった」
そして、今まで誰の顔にもジュネが見たことの無い表情をこちらに向けた。
笑っているような、泣いているような、いや、もっともっとわからない、迷宮のような顔を。
アフロ「・・・私も、いなければ良かったと思ったものだ。生まれてさえこなければ絶望を舐めることも無かった。・・・・君にはわかるまい。一生、わからないといい」
ジュネ「・・・・・・・?」
馬鹿にされているのかと思った。同時に、そうでは無い様な気もした。
深すぎる表情を読み取るには、ジュネはまだまだ幼すぎたのだ。
しかし男の言葉だけは錆びた釘のように胸に打ち込まれ、抜けなくなった。
アフロ「・・・・行こう」
アフロディーテは豊かな髪を揺らせて歩き始める。燃え立つような金の空。海に沈み行く日を浴びて、まるで天使のように影すら淡く透けて見えた。
ジュネは漠然と感じていた。
こんなに美しい景色は、きっとこの世のどこにも無いはずなのだ、と。
アフロ「人がストレスを感じた場合、食欲が減退するタイプとやけ食いに走るタイプに分かれるという。君は後者だな」
ジュネ「黙れ」
3日も断食をしていたのだから食欲旺盛になるのは当たり前である。絶食直後に腹に詰め込みすぎるのはとても危険なのだが、ジュネも一応聖闘士。鉄の胃袋ぐらいは持ち合わせていた。
アフロディーテは申し訳程度しか口にせず、あとは黙ってジュネを見ていた。
見られているほうはしばらく無視していたものの、やがてその視線があまりにも動かないものだから、険悪な目で睨みかえした。
ジュネ「・・・人のことジロジロと、何か用かい?」
アフロ「君は本当に何も考えていないのだろうかと考えていた」
ジュネ「・・・あんたが考えるより考えてる」
アフロ「何を?」
ジュネ「3日も部屋に閉じこもっていたんだ。何も考えずにいられるわけがないだろう。ずっと考えていた」
アフロ「何を?」
ジュネ「・・・瞬のことさ」
アフロディーテはあからさまに気落ちしたようだった。
アフロ「そんな下らない事を考えていたのか?」
ジュネ「あんたが言い出したことじゃないか。瞬が身勝手な綺麗面だって」
アフロ「・・・なるほど。そのことか。なんだ?君も同感だったか?」
ジュネ「そんなわけない!!あんたは瞬の事を何もわかっていないんだ!あの子は昔から強くて優しくて・・・できるかぎり戦いを避けようとしていた。瞬があんたに謝れって言ったのは、あんたの事を許したかったから・・・・」
アフロ「誰が許して欲しいといった」
鉛のように重い呻きが投げつけられたので、ジュネは口を閉じた。
アフロ「なぜ私があんな突然横槍を入れてきた青銅の小僧などに許されねばならんのだ?そんな権利があれのどこにある?・・・私を許せる人間はただサガとアイオロスの二人だけだ。何も知らんガキに許してもらう言われは無い」
沈黙。
しばらくしてジュネがきいた。
ジュネ「・・・・13年前になにがあったのさ」
アフロディーテはそっけなく答えた。
アフロ「今さらあの事件について知らない人間がいるとも思えないが」
ジュネ「事件は知ってる。でも、あんたに何があったかは知らない」
アフロ「私は・・・・私には別に何もなかった」
その時初めて、彼の視線はつとテーブルの上に落ちた。といって、皿を見るわけでもなく、何か自分の心の中でも覗いているようだった。
アフロ「・・・私の宮は教皇の間のすぐ隣だった。だから誰よりも早く真相を知った。それだけだ」
ジュネ「知ったなら何とかすればよかったじゃないか!いくらなんでも、教皇を殺して摩り替わるのが罪だってことぐらいはわかっただろう!?」
アフロ「そうだ。私にはわかった。だが何をしろと言うのだ?サガを糾弾して処刑すればよかったのか?どうしてそんなことができる。シオンは彼の心に気づいていながら殺さなかった。アイオロスも彼を殺すより自分の姿を消す方を選んだ。二人が・・・あの二人がサガを生かそうとしたのに、それでどうして私がサガを殺すことができるのだ!」
苦しそうな顔。それも初めて見せた表情で。
アフロ「私はサガもアイオロスもシオンも大好きだった!ずっとずっと憧れて・・・・なのに、置いていかれてしまった。気づいた時にはシオンとアイオロスはもう手の届かない遠くへ行った後だ。その上サガまで失うなんて・・・・・どうしてできる?君ならできただろうか」
ジュネは答えられなかった。アフロディーテはこちらを見て皮肉なほどに笑って見せた。
アフロ「私にできたことと言えば・・・そうだな、あの後、『アイオロス反逆事件』にショックを受けた何も知らない同僚の蟹が一匹、『やーいやーい逆賊の弟ー!』などとアイオリアを苛めまくって靴の底に画鋲を仕込むわ給食に雑巾放り込むわし始めたので、仕方なく奴にだけは真相を教えてやったぐらいか・・・。だがそれでも苛めをやめなかったところを見ると、事件のショック以上に単なる性格の問題だったようだな」
ジュネ「・・・・・・・・・;」
アフロ「・・・私など、徒花のようなものだ」
徒花。咲いても実を結ばない花。何もできない無駄な花。
アフロディーテはそっと、半分は自分に呟くように言った。
アフロ「人には・・・・手遅れになってから気づく事がある。どうしてもそういう事がある。あきらめればいいものを、あきらめきれないのは何故だろうな。私は・・・・・」
そこでふとジュネの存在を思い出したようだった。言葉の後半を飲み込むと、彼はもとの陶器のようにつるりとした顔に戻ってしまった。
時がずれる。会話がまた元の枠に戻って行く。
アフロ「ジュネ」
ジュネ「・・・・なに」
アフロ「君がアンドロメダを信じるのは構わない。君にとって・・・・・それから他の誰かにとっても、あの小僧は信じる価値のある人間なのだろう。誰にだってそういう人がいる。違うか?」
ジュネ「・・・・・・・・」
アフロ「ただ、私にとってそれは彼ではなかった。その事はきっと永遠に変わらない。だから君の価値を私に押し付けるな。そして私の価値にも君は惑わされるな。私が物を言うと、君はいつもアンドロメダやダイダロスをかばうのをやめるが・・・・・だがな、君も今精一杯生きるつもりなら、本気で守りたいものは死んでも守れ」
それだけ言うと、アフロディーテは席を立って部屋へ行ってしまった。
ダイダロスの墓はギリシアの方角を望む岬の突端にある。岩と砂とが混じった荒廃した土地ではあるが、吹く風は島のどこよりも気持ちが良い。
その夜、満天の星が冷たく輝く下でジュネは墓前に花を供えた。道端に咲いていた島の花だ。
ジュネ「・・・・あの男が来ました」
声は物言わぬ石の板に吸い込まれるように、出ては消える。
ジュネ「本当は先生の仇をうってから報告したかった・・・・・でも、私はまだ、あの男に拳を当てる事さえできません」
うつむくと涙がこぼれそうだった。ジュネは真っ直ぐ前をむいたまま、眼を大きく見開いて、つかえそうになる喉をこじ開けて言葉を押し出していた。
アフロディーテの言葉が認めたくないほど頭の中を掻き乱していた。自分で見えないように隠していた臆病さを全て明るみに引きずり出され、再びしまいこむ方法がわからない。それをしまっていた箱は粉々に壊されてしまったのだ。
大切なものを踏みにじられても何も出来ず、守りたい物を守れないままここに生きている自分は、精一杯生きていないということなのか。同じ時、同じ場所にいた恩師が死に、自分はただ残された。生きるべきで無い物が生きて、死ぬべきで無い物が死んで、どうしてこの世はそんなに皮肉なのだろう。
徒花、とアフロディーテは自身をさして言った。だがいたずらに咲いた花は彼だけではない。ジュネもまた、そうなのだ。
ジュネ「先生・・・・」
たまらずに眼を伏せると、涙が一滴、音を立てて土に落ちた。
ジュネ「・・・・・・私はあの男を殺す事ができないかもしれません。ごめんなさい、先生」
朝が来た。
瞼を開ける一瞬前までは見た夢を覚えていた。けれど光を感じてからは、夜の名残は洗われた様に消えてしまった。ジュネはベッドの上でしばらくの間、夢を思い出そうとしてみたけれど、結局できずにあきらめた。
胸が穏やかだ。空気も凪ぎのように優しい。その原因を探ろうとしてはっと気づく。
匂いが無かった。アフロディーテが家に来て以来、鬱陶しいぐらいにこもっていた薔薇の匂いが消えている。
ジュネは飛び起きて部屋を出た。
窓とドアが大きく開け放たれていて、そして男の姿はどこにも無かった。
昼を過ぎてもアフロディーテは戻ってこなかった。
もしかすると島を離れて、もう二度と会うこともないのではないだろうかとジュネは思った。
仇を討てなかった。・・・・だが、心のどこかでほっとしている。きっとこれが一番いい終わり方だったのではないだろうか。
結果として何しに来たんだあの男と思わないでもないが、今の自分ではとうてい太刀打ちできない。純粋に力も弱い。それ以上に心が弱い。たとえ勝っても・・・・とどめを刺せない。
ジュネ「・・・・瞬」
瞬は彼を倒した。心の優しい少年のことだから、できるだけ戦いを避けて話し合おうと努力しただろう事は容易に察しがつくけれど、結局お互い相容れずに殺しあわねばならなかった。
アフロディーテの心は強い。対等に渡り合うには、瞬はどれだけ強くならねばならなかったのか。それでもあの小さな少年は超えて行った。
ジュネ「私は・・・・・どうして」
どうしてできなかったのだろう。どうして強くなれないのだろう。ダイダロスを目の前で失って、誰よりもあの男を憎んでいたのは自分のはずなのに。今だって憎んでいる。目の前から去られてしまうととめどもなく憎しみが沸きあがって胸を焦がす。
人は手遅れになってから気づく事がある・・・・まさに今がそれだ。仇を討つ最後のチャンスを自分は逃したのだ。
ジュネ「先生、ごめんなさい・・・・・!!」
もう二度と墓へは行けない。
ジュネは顔を両手に埋めて泣いた。アフロディーテに馬鹿にされた時より何倍も激しい悔しさを和らげるには、もう泣くしかなかった。
泣いて泣いて泣いて、枯れ果てるほど泣いて。
窓から吹き込む風が夕の涼しさを乗せ始めた時にようやく朦朧とした顔を上げた彼女は、まるで抜け殻のようだった。涙で記憶も洗われてしまって、昨日までいた同居人の事も幻のように思え、何もかもが夢だったような気がした。
もしかしたら今朝方見た思い出せないあの夢が、この数日の出来事だったのではないだろうか。
部屋を見回す。片付けられた食器。染みの無い床。自分以外の人間の足跡も無い。
アフロディーテは本当にここにいたのか。
ふらふらとジュネは立ち上がった。仇が寝泊りしていた、あの薔薇で馬鹿みたいに埋めた部屋を見に行った。
何もなかった。
もとからあった家具の他は花びらの一枚さえ無い、ただの部屋だった。
ジュネ「・・・・・・・・・・・・」
奇妙な感覚が背中を走り抜けた。嘘みたいに何もない。アフロディーテのいた跡がどこにも。
本当に・・・・本当に夢だった?
その時、海からの風が窓を吹きぬけて忘れられない匂いを運んできた。
薔薇。
はっと顔を上げると、外には血潮のような夕焼けが見えた。
とっさに鞭を握り締めたのはきっと予感がしたからだろう。嵐の前の静けさをジュネは知っていた。あの時もそうだったから。凪ぎのような朝と昼が過ぎて、夕方に災いが訪れた。
家の外に駆け出すと薔薇の花が落ちている。
ダイダロスの墓へ続く道に。
ジュネ「アフロディーテ・・・・!」
叫んで、心臓が破裂しそうになるほどがむしゃらに走った。何もかもが夢ではない。いや、夢にしたいほどの事がこれから起こる。
ジュネ「アフロディーテ!!」
・・・・・・・・辿り着いた時には遅かった。
アフロ「・・・待っていた」
男は現実のものとしてそこにいた。
壊され、踏みにじられたダイダロスの墓の上に。
ほら見るがいい、結局君には何も出来ない。昔から何一つ変わらない。誓うだとかなんだとか、口先ばかりで。
ジュネ、わかるか?
君はまた私にダイダロスを殺された。
ジュネ「――――――っっ!!!!」
赤い空をつんざいて上がった少女の悲鳴は怒りのためだった。
ジュネは土を蹴った。
ジュネ「殺して・・・殺してやる!!」
鋭い鞭の軌跡が男の頬を掠めて空を引き裂いた。
続けざまに、稲妻のように。
アフロディーテは眼を細めてそれをかわす。
だが、彼の動きがジュネの目には見えた。
もっと他の真実も見えていた。
迷いはしないとジュネの心は決めた。これ以上迷うのは誰のためにもならない。
自分は弱くなど無い。今、覚悟を掴んだから。
しなやかに地面をかすった鞭が跳ね上がり男の首に舌をのばした。アフロディーテは左に身をよじって避ける。
その懐にジュネは踊りこんだ。
最後の瞬間、彼女ははっきりと仇の顔を見上げた。泣き出しそうになりながら。
アフロディーテの口が驚いたように開く。
寄り添った二人の影は、どくん、と大きく痙攣して・・・・・・止まった。
ジュネの握った鞭の柄が、深々とアフロディーテの腹を突き破っていた。
アフロ「・・・・・やればできるではないか」
ジュネ「・・・・・・・・・・・・・・・」
何事も無かったかのようなアフロディーテの言葉に、ジュネは答えられなかった。顔を俯かせて、肩を震わせてすすり泣いていた。
アフロ「なぜ、泣く?」
ジュネ「・・・・・・・・・・・・・・・・・気づいていた」
アフロ「そのようだな。いつ、気づいた」
ジュネ「・・・・・・・・・昨日・・・・夕方、お前と歩いていた時に」
そう、あの時、傾く日を浴びて天使のように輝いたアフロディーテを見て、ジュネは思ったのだった。
こんなに美しい景色はきっとこの世のどこにも無いはずなのだと。
貫かれた肌からは血が出ていない。寄せた耳に聞こえるはずの鼓動も無い。ダイダロスは死んだまま生き返らない。当たり前だ。死んだ者が生き返るはずなど無いのだから。それが例え誰であっても。
自分の胸に額を押し付けたまま震えているジュネの髪を、とうの昔に死んだ男は穏やかに指でかきあげる。
アフロ「・・・・君が私を殺せないとダイダロスに言っているのを聞いて・・・・私は少し焦った」
ジュネ「・・・・・・・・・・・・・」
アフロ「君に誓いを守って欲しかった。私は何も遺せなかったから・・・・・私の死んだ後にあったのは君の誓いだけだった。私の叶えてやれる唯一の・・・・・」
言葉が薄れる。ジュネは顔を上げる。
アフロディーテの青い青い瞳がじっと見つめていた。髪の向こうに・・・・いや、もう姿の向こうに夕焼けが透けて見える。
このまま溶けて行く。
ジュネ「アフロディーテ・・・・!」
アフロ「惑わされるな。私は最後まで君の仇なのだ。ダイダロスを殺した事を後悔していない。これからもしない。詫びるつもりも無い。前にも言ったとおりだ」
ジュネ「・・・・・・・・・・・・・」
アフロ「だが・・・・・・彼が死んで君が悲しんだなら、それは君に詫びようと思う」
すまない。
どこまでも穏やかな声だった。
優しく微笑んでいる顔ははじめて見る。
最初で最後の微笑。
アフロディーテはもう全てを言い終えたらしかった。
ジュネ「あ・・・・・・」
ジュネには言いたいことがたくさんあった。胸の中で言葉にならずに渦を巻いている思いを、何としても伝えたい。だが、言葉にならない思いはいつまでたってもぐるぐる回るばかりで。
ジュネ「・・・・・・・・さよなら」
ようやくそれだけ、言えた。
アフロディーテが笑う。
微笑をジュネの瞼に残したまま、金に透ける男の姿は夕焼けの中へ溶けていった。
時が過ぎた。
婆「ジュネちゃん。ちょっと近くまで来たからついでに見合い写真持ってきたんだがのう。ほら。会うだけでもどうだえ?」
ジュネ「ごめんなさい、遠慮させてください、趣味じゃないんですこういう男臭い顔」
婆「でもなあ、あんたの前の恋人みたいに綺麗な顔の人はそうそういねえもんなあ」
ジュネ「・・・・・・・・。ええと、まあ、じゃあ今度はそうそういない人を捕まえてきてくださいってことで・・・」
婆「ん?どっか出かけるのかい?」
ジュネ「はい」
婆「どこ行くんだ?」
ジュネ「ギリシャです」
聖域の裏の共同墓地。その一番はずれの淋しい場所にアフロディーテの墓はあった。
生前あんなに美しかった男の墓も、誰も手入れをする者が無いと見えて苔に覆われ、彫られた名前も読めないほどだった。
ジュネ「・・・・・久しぶりだね」
語りかけながら、ジュネは一輪の薔薇を墓前に供えた。すっかり枯れた赤い薔薇。
アフロディーテがくれた、再会を祝しての一輪だった。
ジュネ「気づかなかったけど、これだけ外に落ちてた。返しに来たよ。・・・島の土が合わなそうだったから」
ダイダロス先生のお墓は直した、とジュネは報告して口を閉じた。
何を言おう。・・・・・いや、何も言う事など無い。
伝えたい事はただ生きる事で伝えられる。あの男はきっと、どこからか軽蔑したように笑って見ているだろう。
ジュネ「・・・・・・・じゃあ、本当に、さよなら」
ジュネは墓に背を向けた。
そうして一度も振り向かずに墓地を後にした。
苔むした墓の上でかすかに揺れる薔薇だけが、彼女の後ろ姿を見送っていた。