空が高い。
海と陽光の印象が強いこの国にも、冬はやってくる。あんなに眩しかった太陽が、秋を過ぎればなんとよそよそしくなるものだろう。
冬が来ると、雨が増える。
分厚い雲がアテネ市街にまで覆いかぶさってきていた。白羊宮からもその陰鬱な景色は一望できたので、ムウは湿気て重くなった呼吸をため息の形で押し出した。
ジャミールと比べれば、こちらの気候はまだはるかに過ごしやすいはずなのに。夏の光の記憶が鮮やかすぎるせいだろうか、冬がこんなに暗く感じられるのは。
…いや。原因は他にあった。


「凄い有様だな」
とミロが言った時、ムウは殆ど朝から初めて微笑んだ。それこそ地中海の陽のような男の来訪が、宮の湿気を一掃してくれるような気がして嬉しかったのだ。
「すみませんね、散らかしていて。きょうはどちらへ?」
「修行場をひやかしにな。たまには来てみろとアイオリアが散々言ってたのを思いだし…すまん、今何か踏んだ」
「構いませんよ。その辺にあるのはどうせ屑です」
「屑?しかしこれは聖衣だろう?ヘッドギアの飾り…じゃないな。バックルか?」
 困惑しながらミロが足元から拾い上げたのは、おそらく彼が推定した通りの、大ぶりで派手に彫刻が施された部品だった。
 そんな欠片がミロの足元から壁まで急斜面になって積まれており、さらにムウの周りから宮の床半分が、それらの本体らしき大量の聖衣…胴体や腕や脚や頭や何や…でごった返している。
 それが今の白羊宮の「凄い有様」なのだった。
「バックルかもしれませんが、聖衣ではありません」
 ムウの口調は苦い。
「なに?」
「馬鹿者のデコレーションです。本来のパーツではない。よく見てくださいその彫刻物。鼻が象で柄が虎でタテガミが獅子なアニマルヘッド?つる座の聖衣についてるわけ無いでしょうそんな物」
「…つる座についてたのか…」
「もともとこの聖衣は女性用なんです。それを無理やり男が着るからこんなことに」
「なんで無理やり男が着ることになったんだ…?」
「サガですよ」
「は?」
「教皇時代に聖衣の発行権限を悪用して濫発したんです。手駒を増やすのに必要だったのでしょうが、聖衣は有限。不足して、無理して融通をきかせた結果がこれです。別に女が着ようと男が着ようと構いませんが、着る人間のレベルはもう少し選んで欲しかった。あんな粗悪な水増し、シオンが存命なら決して許していません」
「なるほどな…女物の聖衣を寄越されたら俺でも改造するかもしれん。この持ち主はつる座を剥奪されるのか?それも気の毒だが」
「いえ、大丈夫です。中身は聖衣の墓場で骨になっています」
 ……
「…おい、ここにある聖衣はもしかして全て…」
「ジャミールの奈落から拾ってきたものです。大分長い間放っておいたものですが、闘いもひと段落つきましたし、さすがにそろそろ直そうかと」
「前から直しておけよ!時間は腐るほどあっただろうが!ジャミールでお前、聖衣の修復師やってたんじゃ無かったのか!?」
「そういう噂を流しておけば、皆勝手にやってきて墓場に落ちてくれるので、サガの手駒を減らすのには丁度良く。めぼしい聖衣が大体落ちたら、老師と二人で反乱軍を旗揚げする予定でした」
 黄金聖衣も蟹座くらいは落ちに来るかと思ってたんですが、と平然と語るムウ。信じられないものを見る目つきのミロ。
 相手の表情に気づいたか、恐るべき修復師はわずかに弁解の色を滲ませて、
「いえ、私も流石に、聖衣の『意思』が聖域に戻ると言うなら止めはしませんでしたよ?しかし、偽の教皇に意に染まない主と組まされた挙句趣味の悪い改造をされたとあっては、聖衣たちも少し休みたかったようで・・・一つも自力で箱に戻ろうとしませんでした。私も、診断書には要休暇と書いてですね」
「診断書ってなんだ。話せば話すほど危ない奴に見えるぞお前」
 ミロは改めてあたりを見回した。事情を知ると、なんだか部品の山から死者の怨念が立ち昇っているような気がするのだった。
「…ムウ。よし、お前も行くぞ」
「え?」
「修行場だ。この宮は空気が悪い。閉じこもってると頭がどうかする。ほら早く」
「!」
 否も応もなかった。
 肩を掴まれ、伸びた爪に頬を脅迫されながら、ムウは白羊宮から連れ出された。



 修行場に着くか着かないかのところで、予想通り雨が降ってきた。
 聖闘士たるもの雨・雷・多少の槍程度では動じないのが基本ではあるが、特段の用も無く来たくも無いのに連れてこられたムウにとっては、なお一層気の滅入ることであった。前髪が重く落ちかかってくるのをかきあげる。
「・・・降ってきましたね」
「そうか?」
 今まさに顔面に雨粒を受けながらあり得ない返しをするミロ。
「お、アイオリアいたぞ」
「いますね」
 だからどうしたと言いたいムウ。
 この盛り上がらなさは、アイオリアと合流したところでどうなるものでもなかった。彼は二人に気付くと開口一番こう言った。
「どうした二人とも。雨だぞ、帰れ」
「ふざけないで下さい。何のためにここまで来たと思っているんですか」
「?何のためだ?」
「ひやかしだ」
「・・・。どう考えても今すぐ帰れしか浮かばんのだが」
「来いと言ったのはお前だろう」
「今日でなくてもな」
「つべこべ言うな。稽古をつけていたのだろう?骨のある奴はいたか?」
 アイオリアは肩をすくめた。
「最近の奴は駄目だな。聖闘士になろうという覚悟が足りん。『自宅が遠い』という理由で初日からバックレる奴もいるし、一月もてば良い方だ」
「あの、聖闘士はバイトか何か・・・?」
「バイトのつもりならまだマシだ。最近増えて困っているのが、『定年後の人生プランに聖闘士を考えている』という還暦間際からの問い合わせで」
「・・・・」
60過ぎてから始められるほど聖闘士は甘くないと言っても耳を貸さん。その中でも特にタチが悪いのが、妻に相談していない奴。退職祝いの旅行と騙して連れて来て、アテネで初めて打ち明けて熟年離婚に至る。挙句の果て、教皇に仲裁を頼みたいなどとぬかしてな」
「迷惑極まりないですね・・・」
「奴らの頭の中では、自分が修行をしている間、妻は喜んで炊事洗濯をしてくれるはずだったというのだ。それを聞いて激怒する妻と魔鈴を宥めるのにも、少し疲れた」
 なるほど、目の下に若干やつれが出て来ている。
 ミロがしばし考えて、
「・・・もしかして、お前が俺にたまには来いと言っていたのは・・・」
「代われとまでは言わんがこの苦労を共有できる友が欲しかった」
「絶対嫌だ。帰らせてもらう」
「まあそう言うな。せっかく来たのだから、暇でも潰していけ」
「暇のほうがマシだ!帰れと言ったくせに!おい、俺は嫌だぞ、おい!」
 今度はミロが無理やり連れて行かれる番のようである。彼も黄金聖闘士とはいえ、さすがに獅子の腕力には逆らい難いらしく、肩を組まれてずりずり引きずられていく。
 気の毒だが微笑ましくもあり、ムウは少し笑った。
「ムウ!笑ってる場合か、助けてくれ!」
「アイオリア、私いりますか?」
「お前は聖衣の修復があるだろう。気晴らしにならん仕事をまわせるか」
「俺だって色々あるぞアイオリア!」
「いやお前は無い」
「なぜ言いきる!?ちょ、お前ほんと、腹に一発撃つぞおい!」
 騒がしい悲鳴が少しずつ離れて行って、やれやれとムウが踵を返そうとした時だった。
 雨の中を稲妻のように翻った影があった。
「アイオリア!なに遊んでるんだい!!」
 豊かな黒髪にしなやかな体、派手なペイントの仮面。
 蛇遣い座のシャイナである。
 ムウの目が大きく開いた。が、彼女は彼に目もくれず、アイオリアに詰め寄ってまくし立てていた。
「魔鈴が怒り狂ってるよ!あんたあのタナカをどうする気なんだい!?」
「どうすると言われても・・・何だタナカって・・・」
脱サラしてきた58の男だよ!!」
「知るか。ミロがなんとかするそうだ」
「俺!?ふざけんなよ!」
「いや、真面目な話、お前ならなんとかできる。スカーレットニードルを死なない程度に撃って、15発全部受けたら聖域に迎えてやると言えば、確実に逃げる」
「お前のライトニングボルトを死なない程度に撃つのでも大体同じだろうが!」
「俺のライトニングボルトに死なない程度のレベルなど無い」
「黙れ!」
「いつまでじゃれ合ってんだよ!いいから二人とも来な!3分で戻ってこなかったらあいつ崖から突き落とすって魔鈴が言ってんだよ!奥さんの許可はもう取ったってさ!!
「酷い妻だな・・・」
「は!?何の相談もなく仕事辞められたうえ、早期退職金勝手につぎ込んで雑兵の装備買われた奥さんの気持ちがあんたにわかるの!?」
「・・・すまん。俺が浅かった」
「わかったらとっとと来てスカーレットニードル撃つんだよこの金髪!」
「いやそれは嫌だ・・・!」
「シャイナ!」
 もみ合っていた男女三人は驚いて振り向いた。
 シャイナは自分の名が思わぬ方向から呼ばれた事に、そしてアイオリアとミロは、ムウがシャイナの名を呼んだ事に、それぞれ虚を突かれたのだ。
 何か断固とした態度で、ムウはつかつかと戻ってくるなり少女の前に割って入った。乱れた前髪の下から、常になく鋭い眼差しがのぞいていた。
 彼は言った。
「シャイナ。その仮面を脱ぎなさい。今すぐに」




「・・・あれは駄目だろう。ムウ」
 半時の後、目の下のやつれを深くしたアイオリアが友人に対して苦言を呈していた。固く組んだ腕にもそこはかとなく苦悩が窺われるようであった。
「俺がお前に説教するのは勝手が違うぞ。どうした?なぜあんな事を言った」
 男三人は白羊宮まで撤退していた。ムウの言葉によりシャイナが怒髪天をつき、手がつけられなくなったからである。
 もちろん、実力的には彼らが彼女のサンダークロウを蹴散らすことなどわけもないのだが、アイオリアとミロの男の本能が「今それは絶対にやるべきではない」と脳髄を轟かせたので、ほとんどムウを担ぎ出すようにして逃げたのだ。
「なぜとは?なぜ言ってはいけないんですか」
と、ムウはわかっていない。
 あのな、とミロが汗ばんだ頬をかきながら、
「女聖闘士に仮面を脱げと言うのは禁句だぞ。服を脱げというのと同じだ。お前、知らないのか」
「知っています」
「知ってて言ったのか!?」
「言いますよ。あの仮面は割れている」
 アイオリアが怪訝な顔をした。
「俺がやった時の傷か?しかしあれは」
「あれは直しました」
「お前、シャイナの仮面割ったのか!?」
「アイオリアが割ったのではありません。その前から割れていました」
「・・・ならずっと割れていたということか?」
「いいえ。直しました」
「・・・・・・・・。意味がわかるように説明してくれ」
 完全に混乱したミロが天を仰いで呻いた。
 ムウは説明した。
「サガの乱で、アイオリアが青銅聖闘士抹殺のため日本へ遣わされたのは覚えているでしょう?あの時にこの人は、止めに入ったシャイナの聖衣を破壊したんです。そして乱に決着がついた後、私のところへ訪ねて来た」



 蛇遣い座のパンドラボックスを開けた時、ムウは思わず「これは…」と呟いた。
 アイオリアはひたすらにバツが悪そうな顔をしていた。
「俺がやった。手間をかけさせてすまんが直してやってくれ。頼む」
 ムウは黙ったまま、まずパーツを一つ一つ箱から取り出し、床に並べた。頭、右腕、左足、左肩・・・最後に、粉々になった背の部分を一欠片も残さず丁寧に並べて、呟いた。
「・・・酷いものだ」
「返す言葉も無い」
「これを着けていた者はどうしました?」
「シャイナは怪我が治りきらんのでまた少し休んでいる。星矢を助けるために魔鈴の後から双魚宮へ登っていった女がいただろう。あれだ」
「・・・ああ。いましたね」
 指先が見る影もなくなった背のパーツの欠片を撫で、いくつかの位置を直す。アイオリアには見えなかったが、かがんで影になったムウの顔は険しかった。
「動けるようなら彼女を明日、ここへ寄越してください」
「承知した。・・・っと、待てムウ。血なら、あいつから取るのは無理だぞ。代わりに俺が」
「あなたからだって無理ですよ」
 死んだ聖衣を蘇らせるために必要な、大量の血液。アイオリアがその血を星矢の聖衣に与えたのは、つい数日前の事だった。いくら血の気の多い男とはいえ、続けざまに二体目は自殺行為である。
 そんなことはさせられない。
「私に任せてください。とにかく、シャイナにはここへ来るよう伝えて下さい。いいですね?」
「・・・承知した」
 アイオリアはもう一度頷き、それ以上なにも言わなかった。



「・・・で、翌日来た彼女から仮面を取り上げて、聖衣と一緒に直したわけです」
 同意の上での提出です、と聞き手のぎょっとした顔に気づいてムウは言い足した。
「仮面の傷はアイオリアの手口ではありませんでしたね。力と言うよりはスピードで切断されたような跡でしたから」
「手口ってお前」
「まあ、ともかくムウが言うならシャイナの聖衣はその時直ったんだろう?よく直せたな。ギリギリ死んで無かったのか」
「・・・・」
 ミロの無邪気な質問にムウは目をそらせた。アイオリアが気づいて口を曲げる。
「ムウ。お前まさか」
「仕方ないでしょう。他にいないじゃないですか」
 あの戦いの直後の聖域で、生き残った聖闘士はわずかだった。アイオリアもミロも、そしてまた他の仲間も、次代を託す新しい少年たちにその血を与えた。
 蛇遣い座の聖衣のために、彼らに無理はさせられない。
 となれば残るのは。
アルデバランは快く引き受けてくれました」
『あいつかよ!!』
「なんですかそんな声を揃えて・・・」
「お前かと思ったわ!どうしたってお前かと思うわ話の流れ的に!!」
「冗談よしてください。私が手首切るのは最終手段ですよ。すぐ隣に一番でかくて元気な血液タンクがあるのに、なぜ私が提供すると思うのか」
「タンクとか言うな!角も直してやってないのによくそんなこと頼めたな!?」
「それは、多少は心苦しくはありましたが、まあアルデバランならいいかなと」
「お前の血は何色だよ!」
 あれからもうだいぶ経つが牡牛座の角はまだ直っていない。
「とにかくですね、蛇遣い座の聖衣はつまり、アルデバランの命を危険にさらして直したものなんです。後のソレント戦で一瞬死んだのもおそらく貧血のせい。それがさっき見たら仮面一枚とは言えまた割れていた。慙愧に堪えません」
「アルデバランの命を危うくしたのは聖衣というかお前なのでは」
「もとはと言えば貴方が原因」
「う・・・」
「しかしムウ、割れていたと言うが、俺には別に何とも無いように見えたぞ。シャイナも普通につけていた」
「貴方の目と私の目。聖衣に関してどちらが確かか?」
「つっかかるなよ・・・」
「もう一度修行場へ行ってきます。シャイナに話を・・・」
「待て待て待て」
 両腕を広げてアイオリアがムウの行く手を遮った。かつて彼がこれほどまでに他人に待てと言った事があったであろうか。今まで言われてきた分を全て返す勢いである。
「俺が行ってくる。シャイナが納得してここに来るのが一番良いだろう。魔鈴を通して頼むしかあるまい。ムウよ、お前はその間に、少し落ち着け」
「別にシャイナ本人が来なくても、仮面さえ取って来てくれれば私はそれで」
「できるか。おいミロ、ムウを押さえておいてくれ」
「わかった。リストリクション」
 アイオリアは石段を駆け下りて行った。
 ムウは恨めしげにそれを見送り、自分の技にいまひとつ自信の無いミロは、万一に備えてその背後からこっそり髪の先を掴んでいたのだった。




 魔鈴は言った。
「シャイナ?セクハラにショック受けて気の毒だったから、もう休ませたよ。ここにはいないよ。気晴らしに一月二月旅にでも出てきなって聖域から出したから・・・は?仮面?知らないよ、なんだい、あんたもセクハラかい。どこに行ったか?ふざけんじゃないよ、このセクハラ」
 ・・・・・



「・・・今は何を言っても聞いても瞬きしただけでもセクハラになるぞ。以上だ」
 沈鬱な面持ちで帰って来たアイオリアの報告は、色んな意味で悲しいだけで何の役にも立たなかった。
 ミロが憤然と言った。
「いくらなんでも旅に出るほどの事ではなくないか?なんだというのだ。女の考えはさっぱりわからん。脱ぎたくないのは別にいい。しかし俺なら、例え公衆の面前でパンツを脱げと言われたからって旅に出たりはせんぞ。要するにそう言う事だろう?確かに過剰反応だ、ムウの言う通り」
「言ってません。一緒にしないで下さい。さすがに私も、女性の顔とあなたのそれとを等しく考えたりはしない」
「だって見せるに憚るものといって、他に何がある」
「俺たちにはわからんだろうな。見られて恥になるものなど、男には無い」
 おそらくパンツの中まで完璧な男アイオリア。何の疑問もなく言い切る。
「だからどうしようもない。今はシャイナが機嫌を直して戻ってくるのを待つしかないだろう」
「嫌です」
「嫌、ってお前」
「男だの女だのはどうでもいいことです。大体、女聖闘士の仮面は女を捨てるためにつけるものでしょう。ならば今更、男も女もない」
「といって、仮面をつけてあれが男に見えるかという話だ。見えるか?お前」
「それは・・・」
「乱暴でも口が悪くても、あれは女だ。尊重してやらんと、お前もタナカのようになるぞ」
「・・・ひどい言われようですね。いえ私がというより、タナカが」
「それに、シャイナとお前なら絶対にお前の方が強いのだ。些細なことなら強い方が折れてやらんと聖域の自治に関わる。少なくとも、修行場で無理を通すならあいつの前に俺が相手だ。そう思え」
 アイオリアの刺したこの釘は、しかしムウの神経をさらに刺激しただけのようだった。柔和な眼の端に険が乗った。
「私は修業場を荒らすつもりなどありません。これは聖衣の問題です。あなたが口を差し挟む事ではない」
「ならやるか。俺と」
「それもいいですね」
「待てお前ら」
 ビシビシビシビシビシビシビシビシビシビシビシビシッ!!!!
「少し落ちつけ。おかしいぞ二人とも」
「ミロ・・・止めてくれたのはわかりますが・・・撃ち過ぎ・・・」
「お前らに一発二発で足りるとは思っておらん。死なない程度の技だから」
「根に持つなよ・・・」
「動くなよ。毒が回るぞ。こんな技でも痛みだけはトップクラスだからな。・・・いいか二人とも、頭を冷やせ。黄金聖闘士ともあろう者が女を巡って私闘とは、いくらなんでも引く」
「違います。アイオリアはどうか知りませんが、私はそんなつもりじゃありません」
「俺だって違うわ!お前が意地を張るせいで、立ちたくもない立場に立たされてるだけだ!いいか、とにかく待て。それだけだ」
「・・・」
 ムウは薄い唇を引き結んでアイオリアを睨んだ。滅多に、このようなきつい表情を見せることはない。本当にどうしたんだとミロが呟いた。
「・・・いつ戻ってくるんです?」
「なに?」
「シャイナですよ。いつ聖域に戻ってくるのか」
「さあ、魔鈴は一月二月と言っていたが」
「戻ってきて、それで私が追いかければ、彼女はまた逃げる」
「それはまあ・・・なんとか上手くやってだな」
「だったら」
 と言ったその声は、突然遠くなっていた。いきなり見えないガラスの箱が現れて男を閉じ込めたかのように。
「だったら今、追いかけます」
「!?」
 アイオリアが気づいて踏み出したときには遅かった。
 一瞬のうちにムウは消えた。呆然と立ち尽くす友人と、聖衣の山だけを残して。
「ムウ!」
 アイオリアの声は主人を失った宮に反響し、その後の沈黙を一層際立たせただけだった。
 外からの雨の音が強くなったのは、実際に空のせいだったのか、聞く者の心持ちのせいだったのか。
「・・・何なんだ一体」
 ミロの一言が全てを表していた。
 何も、わからなかった。
 




 わからない。と、シャイナは思った。どうして自分は東に向かったのだろう。
 一月二月旅にでも出て来いというのは、いかにも聖域らしい漠然さだった。普通なら、傷ついた人はきっと、家族の元へ帰るのだろう。しかし聖闘士にはその家族がいない。仮にいたとしても、聖闘士を志すからには決別せざるをえないことは、タナカ58歳の例などが証明している。
 温かい家庭があって、待っている人がいて、ごく普通の生活ができるならば、聖闘士になる必要などないじゃないか。胸の内で淀む思いがある。
 シャイナはそっと、顔を覆う冷たい板に触れた。
 この仮面。忌々しい、私の鉄の皮膚。
『その仮面を脱ぎなさい。今すぐに』
 男は、簡単に言ってくれる。ただ一枚の板にどれほどの女の感情が込められているか、知りもしないし、知ろうともしない。
 だからたやすく奪えるのだ。
 ガタン。大きな音を立てて辺りが揺れた。シャイナは膝を抱きよせ姿勢を変えたが、考えることはやめなかった。
 女とは、何だろう。
 女聖闘士は仮面をつけることで女を捨てるのだと教えられてきた。だが、実際にはその仮面こそが、彼女たちを「女」の中に封じている。捨てようにも捨てられない、この「女」という性。
 例えば、自分は今、ルフトハンザ航空機の車輪格納庫に納まっている。怒りに沸き返った頭ではキャンセル待ちの手続きをするのももどかしく、アテネの空港で離陸滑走中の一機の後輪にしがみつき、フランクフルトで格納庫を乗り継いで、こうして羽田までやってきた。そろそろ着陸しそうな気配である。
 この間、高度は一万メートル、外気温はマイナス50度、気圧は20%減、飛行時間は十数時間。普通の人間なら確実に死んでいる。が、自分はこの通り生きている。生きているどころか、多少髪に霜がおりて体が強張った程度で、特に身体に影響はない。聖闘士になることで人間をやめたのは確かだ。
 しかし女をやめたかとなると・・・。やめられないからこそ、日本に来てしまったのだ。
 格納庫が開いて車輪が下り始めた。シャイナは適当な支えに腰をかけ、憂鬱に脚と指を組んだ。彼女は意識していなかったが、その姿はまさに一つの悩める少女のポーズで、轟き渡る爆音と振動と接地の火花を除けばどこにも雄雄しいところなどなかった。今この瞬間、彼女を視認した管制官が泡を吹いていることなど、何も知らない。
 人をやめても、女であることは残るのだろうか。
 怒りは答えの無い問いに形を変え、一層彼女を苦しめつつあった。
 急減速を始めた車輪から飛び降りて、シャイナは影のように走り去った。




「見つかったか?」
「いや」
 ムウ消失から一晩明けて。
 白羊宮では残された男達が、目の下を黒くして座り込んでいた。
「どうする。俺たちで夜通し探して見つからんということは・・・俺たちが探したところにはいないということだぞ」
「ああ」
 ミロもアイオリアも真剣である。ツッコミはいない。
「ムウを捕まえるのは無理として、せめてシャイナの方を確保できればと思ったのだがな・・・」
「お前、どこを探した?」
「ギリシャ中、俺が探せる場所は全て探した。お前は?」
「同じく」
「・・・ということはだ」
 二人は何かに怯えるような視線を交わし、そしてついにアイオリアがそれを言った。
「探さねばならんのか。女子の浴場やら便所やら、何かそういう方向の場所を」
「いやそれは絶対駄目だろうさすがに。セクハラ超えるぞ。聖域から永久追放されてお前、当座の間に合わせにタナカが獅子座の聖衣を着ることにでもなったらどうする。ここはやはりもう一度、魔鈴に聞いてみるしかないのでは」
「瞬きしただけでセクハラ扱いされると言うのに質問の余地があると思うのか・・・?」
「このままではお前がセクハラどころか痴漢にまで落ちると言えば、いくらなんでも話ぐらい聞くだろう。よし、今度は俺が行ってくる!」
 ミロは決然と立ち上がり、宮を出て行った。


 魔鈴は言った。
「鬱陶しいね、今はあんた達の相手してる場合じゃないんだよ。こっちはタナカで手一杯・・・は?アイオリア?知ってるよ、あいつはセクハラさ。シャイナ?だからシャイナがなんだっていうんだい!今はタナカが問題だっつってんだろ!ミヨ子(妻)が泣いてんだよ、用があるならタナカを殺してから来な!!」


「・・・殺すしかない。タナカを」
「何の話してきた一体!?」
 悲壮な面持ちで帰って来たミロの報告は、色んな意味で物騒なだけで何の役にも立たなかった。
「全く聞いてもらえなかった。そしてお前はセクハラで決定していた。全てを水に流すには、タナカを始末するしかないと」
「できるわけないだろう!リストラされた男の悲しみなら、俺も多少は知っている!」
 苦労人アイオリア。己の過去を思い出し、重なるはずのない何かを絶望的希望退職者の姿に重ねたようであった。
 彼は奮起した。
「よし、わかった。女どもがそういうつもりなら俺にも考えがある。ミロよ、ムウを信じてやるぞ。あいつがこの先どんなセクハラをしでかそうと、俺は絶対セクハラだと認めんからな!断固あいつのカタを持ってやる!わかったな!?」
 ムウがこの場にいたら色々言いたい事はあっただろう。信じてもらわない方がマシだとか何とか。
 しかしこの場にいたのはミロであった。
「フッ、ようやく元気が出たようだな。お前に言われるまでもない。要するに、黙ってムウを信じて待っていればよいのだろう?たやすいことだ」
 彼は納得し、そう豪語した。

 そして1分が経過した。

「だめだ。待てない!ムウを追うとは言わんが何かしていないと俺は待てん!!」
「だとは思った。別に、こうなったらもう、俺たちは自分の宮に帰っても良いはずだが」
「は?天蠍宮に帰って何をしろというのだ。そもそも暇だから俺は下までおりてきたのだぞ。上に戻ってどうしろと」
「一晩シャイナを探し回って十分暇つぶしになっただろう」
「見つかっていない以上すっきりしない。俺としては駄目だ。そういうのは」
「なら・・・片付けるか?これを」
 アイオリアが顎で指す。大量のゴミ・・・もとい聖衣の山を。
 ミロはしばし沈黙した。
 そして。
「よし。俺はしばらく寝る」
「そうしろ。俺も寝る」
 それが何の役にも立たない事ではあっても、自分で決めて実行したなら何かした気にはなれる。
 自尊心の底をさらってなけなしの満足感をかき集め、ゴロ寝を始める二人であった。


 

 日本某所にある孤児院、星の子学園。謎の神父の庇護の元、身寄りのない子供たちが平和に暮らす場所である。
 その日は、いつにもまして賑やかな彼らの輪の中に、久しぶりの客の姿があった。
「星矢ちゃん。はい、ジュース」
「サンキュー美穂ちゃん」
「あ、星矢兄ちゃんだけずるーい!」
「おれたちのはー?」
「あんたたちはさっき飲んだでしょ。もうダメよ」
「ケチー!」
 小鳥の囀るようなブーイングに囲まれて、星矢は笑っている。少し前まで生き死にの境を彷徨っていたとは思えない屈託の無さだ。
 孤児院のささやかな庭は暖かい晩秋の日差しに包まれている。
「喉乾いたよー乾いたー」
「お水を飲みなさい」
「やだー!ジュースがいい!」
「だーめ」
「ケチ!そんなにケチだと、星矢にいちゃんがヨメにもらってくんないぞ!」
「な、なにいってるの!」
「星矢?、美穂ちゃん星矢が来るのすっごい楽しみにしてたんだぞ?」
「一番新しいスカートはいて!」
「きのうの夜もいつもより一億倍くらい髪とかして!」
「ちょ、ちょっとあんたたちっ。いい加減なこと言わないのっ」
「本当だもーん。こうやって鏡のまえで…」
「もう!もういいから!わかったから!ジュースは冷蔵庫に入ってるから、自分で飲んできなさい!」
 叫んだ少女のうなじは真っ赤に染まっている。鼓動が聞こえて来そうな色である。
 子供達が歓声をあげて走って行ってしまうと、後には不自然な方向に顔を背け合う二人が残された。
「えーっと…」
 頭を掻きながら星矢。
「ご、ごめんなさい。ほんと、変なことばっかり言うんだから、あの子たち」
 エプロンの裾をしきりに指でひねりながら、美穂。
「こ、このジュース美味いな!やっぱ星の子学園で飲むジュースは最高だぜ!」
 一杯引っ掛けに来た飲み屋の客のような事を言い出す星矢。
「そ、そう?良かった、嬉しい。ゆっくりしていってね。星矢ちゃん、最近全然来てくれなかったから」
 こっちも同じくらい飲み屋のママのような台詞で返す美穂。
「はは、ごめん。ちょっと色々あってさ」
「あ、私こそごめんなさい。星矢ちゃんが大変だったのはわかってるの。その…いいの。いつでも、星矢ちゃんの来たい時に来て?」
「ありがとう、美穂ちゃん」
 星矢は微笑むと、照れ臭そうにジュースを飲み干した。



 こいつら一体どういう関係なんだい。・・・と、シャイナは思っていた。
 友達以上恋人未満の少年少女かと思いきや、二人の会話は瞬く間に飲み屋を越え、愛人とその旦那のようになっている。
 美穂は星矢の愛人・・・?いや、そんな馬鹿な。聖闘士はアテナ以外の女性を愛してはならないはずである。
 大丈夫、とシャイナは自分に言い聞かせた。とりあえずここまでのところ、美穂からの愛は感じても星矢からの愛は感じない。別の意味で殴りたくなる気がしないでもないが、それはそれとして、聖闘士の本分的にはセーフであろう。
 アテナならまだしも、こんな垢ぬけない小娘に、星矢の隣にいて欲しくは無かった。
 納まらない感情が心の奥でひしめいて、摩擦が胸を焦がすようだ。
 シャイナは固く体を抱きしめたままさらに耳をすませた。
 美穂がまた何か、星矢に語りかけている・・・



「ねえ、星矢ちゃん。もう、戦いには行かなくていいんでしょう?」
 これは困った質問だった。星矢はなんともいえない顔をした。
「いや、行かなくていいってことにはならないよ。また戦いが始まれば、俺達は行くんだ」
「どうして?星矢ちゃん達はもう十分に戦ったじゃない。そのたびに大怪我して・・・他にも聖闘士はいるんでしょう?その人達じゃ駄目なの?」
「駄目どころか、黄金聖闘士は俺達以上に戦うさ。でも、あの人たちが命を賭けて戦い始めたら、俺達だけのうのうと暮らしているなんて、そんなことしたくない。俺達は聖闘士なんだ。だから・・・」
「違うわ。私が言っているのは黄金聖闘士さんのことじゃなくて、例えば邪武さんとか言う人のことよ。春麗さんから聞いたの。星矢ちゃん達と同じ役職なのにロクに働いてない人達がいるって。本当?
「・・・えっと、それは・・・あいつらはあいつらでちゃんとやってると思うけど・・・」
「星矢ちゃん、ちゃんとこっち見て答えて。やっぱり本当なのね。酷いわ、次は星矢ちゃん達はお休みして、邪武さん達が行けばいいじゃない」
「いや美穂ちゃん、そういうわけにはいかなくて・・・ここだけの話なんだけど、邪武じゃ無理なんだ。たぶん」
「無理ってどういうこと?邪武さんは聖闘士に相応しくないの?」
「そ、そうは言わないけど・・・」
「その人辞めさせて他の人に替えたらいけない?」
「そんな物凄いこと俺に聞かれても・・・・あ、そうだ美穂ちゃん!今日のスカート可愛いよな!それどこで買ったんだ!?
 あからさまにド不自然な話題の転換をはかる星矢。
 だが、「もう、はぐらかして!」と一瞬ふくれっ面を見せた美穂も、褒められたのは素直に嬉しかったらしい。今までの怒涛の攻勢から一転、恥ずかしげに身を引いてスカートのひだを押さえるようにした。
「近所のお店で売ってただけなんだけど・・・可愛かったから、奮発してお小遣いで買っちゃった。その、星矢ちゃん、こういうの好き?」
「ああ!凄い好きだぜ!」
 邪武話から遠ざかろうと勢いに任せて行く星矢。
「あのね、もう一着気に入ったのがあって、とっても迷ったの。同じピンク色なんだけど、こっちよりももうちょっとオレンジっぽくて、細かい千鳥格子で」
「そ、そうなんだ・・・?」
「こっちはふわっとした形だけど、そっちのは少しシュッとしてる感じで、こっちより大人っぽかったの。私、このスカート子供っぽいかなって不安な気もしたんだけど、そんなことない?星矢ちゃんはどっちが良かったと思う?」
「お、俺?そりゃあ、今履いてるのが一番良いんじゃないかな!」
「本当?子供っぽく無い?」
「全然!」
「同じ形のスカートでね、ブルーのもあったの。ピンクで良かったと思う?」
「もちろん!」
「星矢ちゃん、ちょっと返事がいい加減な気がする。ほんとにそう思ってる?」
「そ、そりゃ・・・・だって俺、そんなことわからないよ!」
 星矢はついに降参した。
 戦いの中で一度も上げた事の無いような、困り切った悲鳴だった。
「形とか色とか言われても想像できないし!たぶん実際に見たって俺、見分けつかないよ!」
 そりゃそうであろう。
 だが、がっかりするかと思いきや、ぶっちゃけられた美穂はおかしそうにクスクス笑っていた。
「だと思った。星矢ちゃん、すごく無理して返事してるの伝わってきたもの」
「あ!酷いな美穂ちゃん!」
「ごめんなさい。なんだか、嬉しかったの」
 少女は笑う。
 その朗らかな声に紛らせて、素早く目尻のあたりを指で払ったのが、こちら側からだけ、見えた。
「星矢ちゃんが優しくて。私・・・嬉しかったの」


 美穂・・・!!とシャイナは思っていた。
 わかるよ美穂!あんたのその気持ち!と。
 鬱陶しさに胃の腑が焼けるようだった邪武テーマへの食いさがりも、てめえの履くもんくらいてめえで決めな!と危うく叫びかけたスカート云々の下りも、今はもう許した。そんなことはただの乙女心のなした徒にすぎない。
 少女の泣き笑いの横顔を見た瞬間、シャイナにはわかってしまったのだった。
 彼女が本気で恋をしているのだと。その恋は辛くて辛くて切なくて、上手く泣けないくらいの恋なのだと。
 知らず知らずのうちに、両手が胸を押さえていた。
 星矢の優しさがどんなに温かくて嬉しいか、シャイナは知っていた。彼を憎む事も殺す事もできなくさせ、ただ愛する事しかできなくなる、あの無邪気な優しさ。
 そのせいでひどく傷つく事もあるけれど。でも。
「・・・星矢」
 ささやくように呟いて、シャイナは目を閉じた。
 彼を愛した事を後悔はしないだろう。
 たとえ、どんなに傷ついたとしても。


「でもさ、確かに俺ムリしてたけど、スカートが可愛いって思ったのは本当だぜ?」
 星矢が言った。
「だって、聖域には美穂ちゃんみたいな女の子らしい女の子っていないからさ」
「え?女の人、いないの?」
 きょとんとする美穂に向かって、さらに言った。
「いるはいるけど、オニババみたいだよ。皆。魔鈴さんなんか特におっかなくって」
「ふふ、その人、星矢ちゃんのお師匠様でしょう?そりゃあちょっとは厳しくもなるわよ」
「ちょっとどころじゃないんだって!それに、魔鈴さんじゃなくても怖いのに変わりないしさ。誰もスカートなんて履かないし」
「女の人もみんなズボンなの?」
「うーん、ズボンっていうか、聖衣なんだ。男の聖闘士とは違うけど、なんか水着みたいな・・・」
「やだ」
だけど、それが向こうじゃ普通なんだよな。慣れちゃうとなんともないよ。あんなにいと女の人って感じしないし。だから美穂ちゃんのスカートみたいなの、俺好きだよ」
「すっ・・・!?あ、えっと、あの、ありがと、星矢ちゃん」
 美穂が恥ずかしそうに、だがこの上なく嬉しそうに、笑った。


 いくらなんでも傷つけすぎだろうお前、とシャイナは思っていた。
 「オニババ」「変」「慣れるとなんともない」。言葉のナイフが流星のように胸を抉る抉る抉る。
 こっちがこの場にいることを知らないのだから、思いやれとは言わない。まさか三メートル先の植え込みの陰に聖闘士一匹潜んでいるとは思わないだろう。
 しかし、お前は当人がいなけりゃそこまで言うのかぐらいは言ってやりたい。
 彼女の格好は、まさに「変」と言われたそのままの状態である。聖域ならではの修行着。さすがに聖衣は着ていないが、逆にそのせいで露出は上がっている感がある。
 ふうわりと揺れる美穂のスカートを見るにつけ、聖闘士になって以来感じたことのない羞恥心が沸き起こった。一言言ってやりたいのは山々だが、この格好では出ていけない。
 帰ろう、と思った。
 その時また、星矢の声が聞こえた。


「あ、じゃあさ!美穂ちゃんが欲しかったもう一着のスカート、俺がプレゼントするよ!」
「ええっ!?」
 星矢の申し出はその場にいる星矢以外の存在全てを驚嘆させた。
「嘘でしょ星矢ちゃん!?」
 美穂のとっさの返事はほとんど失礼ですらあった。
 しかし星矢は照れ臭そうに言う。
「だって、入院した時とか俺すごく世話になったしさ。お礼ぐらいしなきゃってずっと思ってたんだ」
 嘘つけよお前。誰かがそう突っ込んでも不思議はなかっただろう。
「でも、そんな」
「遠慮しないでいいって」
「だって、その・・・星矢ちゃん、お金は?」
「大丈夫!実はさ、日本に来るときに、今まで散々死ぬ目に遭わせたからって、沙織お嬢さんが皆に金一封くれたんだ。要らないって言ったんだけど、お世話になった人にお礼をしなさいって言われたからさ。だから美穂ちゃんにもプレゼントしなきゃ・・・」

ゴガア!!

「それお前からじゃなくて実質お嬢からのプレゼントじゃないかいふざけんじゃないよ星矢・・・」
「うわぁっ!?シャイナさん!?」
 植え込みの陰から突如現れた知人とその強大な殺気に、度肝を抜かれてのけぞった星矢である。
「ど、どうしてここに!?」
「お前を殺しにだよ決まってるだろう」
「なんで!?俺、なんかしたかよ!?
「しすぎなんだよ。私もね、さっきまでは美穂を殺そうとか自分が死にたいとか思ったけどね、結局お前を殺すのが一番良いって結論が出たよ今」
「はぁ!?わけわかんないぜ!」
「わかってないのはお前だけさ。美穂ならわかるよ。そうだろ?自分の都合のいい時だけ来て飲み物だけかっくらって、挙げ句の果て他の女から貰った金でプレゼントなんて、ちょっとは死んで欲しいと思ったろうね美穂?」
「ありがとう、どこのどなたか知らないけれど、ちょっとどころじゃなく思いました私」
「ほらみな」
「星矢ちゃん、こちらの方がもしかして、さっき話してた聖闘士のお姉さま?とっても素敵で人の気持ちをわかってくれる方だと思う私」
「お、俺の気持ちはわかってくれてないんだけど!」
「心を持たない人の気持ちなんてわかるわけないわよ」
「ええ!?」
 予想だにしていなかった美穂の冷たい一蹴に進退窮まる星矢。孤児院の天使を何がここまで変えたのか彼にはわからない。
 小宇宙に電流を漲らせたシャイナが一歩にじり寄った。
「覚悟はいいかい星矢…」
 そこへ。
「あー!変な人が来てる!」
 飛び込んで来たのはジュースから戻ってきた子供達の声だった。ぱらぱらと礫のように駆けてくる、その姿は無垢である。
 ズバリ言われた変な人の動きもさすがに一時停止した。
「この人だれぇ?」
「星矢にいちゃんの敵じゃね!?」
 無垢だけに感覚は鋭敏である。
「こういう顔の奴、プロレスラーにいた!」
「こえー!女なのにこえー!」
 そして残酷でもあった。
「スカート履いてないじゃん!ヘンタイじゃん!」
「妖怪ヘンタイ仮面ー!」
「なんで仮面つけてるんですかー!ブスだからですかー!」
「美穂ちゃん逃げろー!ブスがうつる!」
 …躾がなってない、などと言ってはいけない。のびのび育つとガキは一時こうなるものなのだ。敵と見做した相手なら尚更である。
 ちょっとあんたたちやめなさい!と美穂が慌てて抑えにかかるも、容易に収拾はつきそうにない。
 シャイナが目に見えて怒りに震えている。
「…っのクソガキども!」
「ぎゃー!ババアが怒ったー!」
「誰がババアだい!!」
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!あんたたちいい加減に…」
「クソババ仮面!くらえ!ペガサス流星拳ー!」
 憧れの星矢にいちゃんの必殺技を叫びながら石を拾って投げるクソガキ。雑なパクられ方をした星矢の「やめろって!」の声も届かない。
 この一石がどこかに当たっていれば、さすがにシャイナも堪忍袋の緒をぶち切ったであろう。
 だが、そうはならなかった。
 石は投げたクソガキ当人の顔面を打ったのだ。
 虚空の、見えない壁に弾き返されて。




「少し、悪戯が過ぎますよ」
 そう言って、守るようにシャイナの傍に立ったムウには、いささかの気後れも無いようであった。
「久しぶりです、星矢」
 落ち着いた耳触りの良い挨拶。沸騰しかけた園庭の空気を、優しく撫でて冷ましていく。
「すみません、羽田の監視カメラを全て破壊するのに手間取ってしまって、出遅れました」
「なんのテロしに来たんだよムウ」
「経緯説明はまた今度。私はこの人に用があるんです。シャイナ、無駄ですよ。君の動きは封じました」
「ぐ・・・っ!」
「う・・・っ!」
「く・・・っ!」
「うぅ・・・っ!」

「すみません、この子たちの動きもなんか封じられてるみたいなんですけど!」
「人に石を投げるのはいただけませんから」
「自分がカメラ破壊するのはいいのかよ」
 と言った星矢もただちに封じられた。星の子学園は声にならない程度に阿鼻叫喚である。
 ムウは、怯えた様子の美穂にだけは優しく、すぐに回復しますから心配しないでくださいねと言ったが、そりゃ無理だろうと誰もが思った。
「さて、シャイナ。逃げても無駄なのに気づいたでしょうが念のために言っておきます。あなたが車輪格納庫にいたその間、私は同機内の空き席にいました。君の動揺した小宇宙は追い易かった。機体に何か起きてもこまるので、日本までは大人しくお供させていただきました」
 ちなみにファーストクラスです、とさらに感情を逆なでするような事実を付け加えて、
「気は変わりませんか?」
「・・・っか、わる・・・わけがっ!!」
「そうですか。残念です。私もできれば、力づくで奪うことは避けたかった」
「!!」
「しょ、しょっと、アて!ウウっ・・・!」
 ちょっと待て!ムウ!と言いたかったのであろう心意気で抗議の声を上げたのは星矢だった。なぜか他の誰より厳しめに封じられているように見える彼は、この展開が何に起因してどこに行くのか全くわからないはずだったが、不穏な空気だけは察知した様子で、地面に倒れ伏しながらも懸命に顔を上げていた。
「シャイ、ナしゃんを・・・ろうする・・・きらっ!?」
「星矢・・・!」
 身を震わせるシャイナ。自分の為に立ち向かってくれる、そのこと自体はとても嬉しいんだけれども好き人のこういう噛み方は正直あんまり聞きたく無かった、そんな微妙な本音が強張りながらも落ちた肩に表れている。
 ムウは答えた。
「別に、どうも。私はただ彼女の・・・」
「!!言う、な・・・っ!」
「彼女の・・・」
「言わな・・・で・・・!」
「・・・。彼女の、気持ちを確かめに来ただけです」
「言い方ァ!!」
 ムウのテレキネシスをぶっちぎって怒鳴れるほど、咄嗟に小宇宙を燃やしたシャイナであった。
「何でそんな言い方した!?なんでそんな誤解を招く言い方したんだいあんた!?」
「驚きました。私のテレキネシスを自力で解くとは、君もなかなかやるじゃないですか」
「うるっさいよ!!いいから答えなこの変態ドS眉毛野郎!!なんであんな言い方した!?」
「酷い言われようですね・・・仮面の事は言って欲しく無さそうだったので、咄嗟に善処した結果があれじゃないですか。いけませんか」
「いけないに決まってんだろ全然善くなってないんだから!!むしろ最悪なんだから!!仮面の事も言ったしね今!!
「ええ、つい」
「ついじゃないよ!!ていうかそこはもういいけどどうでも!あんな言われ方するなら最初からそのまま言ってくれた方がマシだったよ!!」
「そんなにムキにならないでください。誤解を招くって、どこの馬鹿がどんな誤解をするというんですか」
「おいおいムウ、シャイナさん、あんたらもしかしてデキてんのかよ〜?」
「ここの馬鹿がこういう誤解するんだよ!!違うからね違うからね星矢、あたしは全然こんな奴・・・!」
「ああ、君がやたらに騒いだせいで、テレキネシスが解けてしまった」
「そんなんで解けるのあんたの技!!?」
 ・・・少し離れて子供たちを介抱していた美穂に「そろそろ近所からクレームが来るので声を抑えてもらえませんか」と言われたのは、大体この辺りのことである。彼女はムウを知らなかったし、突然身内をえらい目に遭わされて大いに憤慨もしていたが、「どうせ星矢ちゃんのお友達でしょ」という結婚五年目の妻のような諦めで全てを心の便所に流していた。
 星矢の友達二人は反省した。
「失礼しました。場所を移しましょう、シャイナ」
「そうだねそうするかい・・・って!」
 乗せられかけて我に返る。
「冗談じゃないよ、消えたきゃ一人で消えな!」
「騙されませんか。残念だ」
 ムウがため息をつく。腰に手をあてる。そして言う。
「やはり実力行使しか無いと言う事ですね」
 刹那・・・

 強烈な光が足元から沸き上がった。

「!!」
 悲鳴をあげるいとまもなかった。シャイナはそれに飲みこまれた。
 だが、意識を手放す一瞬前に、彼女は見たのだ。
「星矢ちゃん・・・!」
 この凄まじい光でにわかに恐怖を覚えたらしい美穂と。
「美穂ちゃん!」
 彼女の縋る声にはっとして駆けていく星矢の姿を。
「大丈夫か?美穂ちゃん!」
 シャイナの背中から、冷たく力が抜けていった。もはや痛みも感じはしなかった。
 ただ・・・
 真っ白に塗りつぶされていく光の片隅に、深く、苦しく、詫びるように自分を見る目が、あったような気がした。




「その仮面を脱ぎなさい」
 と、ムウは少女に言った。
 真夜中に近かった。初めて客として迎えた蛇遣い座の聖闘士は、彼にとっては傷を負ったただの少女に過ぎなかった。
「い、嫌だよ何で!」
 彼女は抵抗した。今と同じように、あの時も。
「割れているからです」
 白羊宮の床に並べた聖衣の残骸が、灯火にいやに煌めいていたのを、覚えている。
「放っておいても直るものではありますが・・・良い血が手に入りましたから、本体と一緒に直してしまった方が良いでしょう。脱ぎなさい」
「嫌だ・・・いっ!?」
「私は命令をしている。君に否応を問うているのではない」
 テレキネシスで自由を奪うことなど造作もなかった。彼女は弱い。ロクに自覚もできぬ程に。
 それがますます苛立たせたのだ。
「・・・このまま仮面を君から引き剥がす事だってできます。聖衣を直さずに置くことも。修復師の立場からはっきり言いましょう。君のような人に聖衣を纏って欲しくはない」
「な・・・!」
「この状態」
 粉々に割れた、蛇遣い座の背。
 聖衣の傷は、常に主の覚悟を映す。
「アイオリアは、思慮の足りない男ではありますが、女性を背後から襲う人では断じてない。君が無防備に、あの前しか見ていない男の軌道へ割り込んだ・・・おそらくは誰かを庇って。違いますか?」
「・・・」
「これが腹の傷ならまだいい。君が闘った証と捉えましょう。しかし背の傷ならば、君が君自身を見捨てた証拠です。聖衣はただの鎧では無い。これにも命がある。主を守り共に闘うがため生きている物を、安易に死にに行く人に使わせるわけにはいきません」
 その仮面を脱ぎなさい、とムウはもう一度言った。
 テレキネシスを解いたことはシャイナにもわかっただろう。彼は振り向かなかった。
「生きて闘うつもりがあるのなら置いていきなさい。今回の修復はアイオリアに頼まれている。軽い頭をああまで下げるのは大変だったろうと思うので無碍にはしたくない。・・・が、君がそうやってつまらぬ感傷にこだわるというなら、あの男にも諦めさせよう。君も勝手にするがいい」
 一度も、振り向かなかった。
 記憶に残っているのは聖衣の欠片に反射する無数の灯・・・そして、夜更けて床から拾い上げた、あの銀の仮面の無機質な冷たさだけであった。


 

 シャイナが目を覚ました時、空は薄紅から群青へ見事なグラデーションを描いて広がっていた。
 細かい雲が飛んでいる。ギリシャの空ではない。
 身を起こすと、少し離れて髪の長い後ろ姿があり、その向こうは何もない空間・・・いやそんなはずはなかった。近づいてみれば眼下一面に、都市の風景が広がっていた。
「ここは・・・どこだい?」
 と、彼女は男に並んで聞いた。
「さあ」
 ムウの返事は投げやりだった。
「人の気配がしないのはここぐらいだったもので。この街のスターヒルか何かじゃないですか」
 正確には東京都庁南展望台屋上ヘリポート。当たってないが少しは近い。彼らがそれに気づく事は無いだろうけれども。
「私は・・・随分寝てたのかい」
「六時間ほど。技を掛け間違って、殺してしまったかと思いました」
 空の低いところを飛行機が飛んでいく。流星のようだ。
 シャイナは強張った体を無意識のうちにさすりながら男の横顔を盗み見た。今の言葉が冗談だったら、多少は笑ってやるべきだったのかもしれない。だが、そういうわけでもなさそうだった。
 何を考えているのかわからない。
「・・・仮面、私が寝てる間に、盗っていきゃよかったじゃないか」
 沈黙が耐え難くなって、また彼女の方から言った。
 ムウは答えた。
「そうしましたよ」
「は!?」
「もう君の仮面は直っています」
「ちょ、嘘だろ!?あんたよくも・・・!!」
「嘘です」
 ・・・
「あんたねえええええっ!!」
「そうされたかったんですか?」
「なわけないだろ!!」
「だったらいいじゃないですか」
 男はこちらを見ない。言葉はテンポ良く交わしているはずなのに、会話が成り立っていないような不安を覚えた。
 また沈黙が落ちそうになって、シャイナは焦って吐き捨てた。
「馬鹿じゃないのかい!六時間も、何やってたんだよ、こんなところで!」
「君を心配していました」
「・・・は?」
「殺してしまったかもしれないと、君を心配していました」
 ・・・
「ど、どうせ嘘だろう!?それも!」
「シャイナ」
 と、彼女の狼狽など目の端にも映らない様子でムウは言った。
「仮面を渡しなさい」
「・・・」
 シャイナがついに黙り込んだので、今度こそ、完全に沈黙が落ちた。
 西日が強烈な最後の光線を残して沈んでいく。
「逃げないのですか」
「どうせ無駄なんだろ」
「ええ、どうせ無駄です」
「だったら聞くんじゃないよ」
「君はいつまでそうしているつもりですか」
「・・・知らないよ。私は何時間だって何日だってここでこうしてるさ。あんたが目の前から消えて、二度とふざけた事をぬかさなくなるまでね。怒鳴られようが殴られようが、私は絶対にあんたの思い通りにはならないよ」
 ムウがため息をついた。
「怒鳴るつもりも殴るつもりもありません。君がそうしたいなら好きにすればいい。だが、私も怒鳴られようと殴られようと絶対にやめはしない。君がここにいるなら、私もここで君を」
 ・・・
「・・・なんだい。変なところで切るんじゃないよ。私を、どうするって?」
「危ないところでした。口を滑らせてとんでも無いことを言いかけました危ない危ない。気にしないで下さい」
「無理だよ!今更何言ってんだ、そこまで喋ったんなら全部吐きな!!」
「聞きたいですか?では仮面をくれたら教えるということで」
「ふざけんなあああっ!!」
「この手もだめですか・・・」 
「当たり前だよ汚いんだよ!!あんた正直、やる事なす事いちいちこっちのカンに触るんだよ何考えてるかわかんないし!!私をストレスで責め殺してから剥ぐつもりなのかい!?そんなに人に恥をかかしたいのかいあんたはっ!?」
「割れた仮面を顔に貼り付けて歩く方がよほど恥ずかしいかと」
「全っ然!!あんた以外の誰がこれを割れてると思うのさ。アルデバランの角なんかこれよりよっぽどぶっ壊れてるけど、あんたはあれを恥ずかしいと思って見てるわけ?」
「思いますよ。当たり前じゃないですか」
「直してやりなああああっ!!思ってんなら直してやんなよお隣さんだろあんたにとって!!」
「隣ですし友人ですけど・・・でもあれは別に、いいんですよ」
「何が!?」
「あの角が無くてもグレートホーンは撃てますし、あの角があったからと言ってアルデバランの耐久性が増すわけでもありませんし」
「酷い事言うなああああっ!!つうかあんた割れ窓理論って知ってる!?関係ないように見えてもあの角のせいであいつがナメられたり弱くなったりしてる可能性、あるだろ!!」
「ありませんよ、アルデバランが打たれ弱いのは元から・・・」
「言うなああああっ!!」
 シャイナが渾身の力を込めて遮ったので、牡牛座の黄金聖闘士の威厳は辛うじて保たれた。
 ムウがやれやれと肩をすくめた。
「それで、まだ仮面を渡す気にはなりませんか?」
「なるかっ!どんな流れでそこに持っていってんだよ、なるわけないだろ!」
「どうしてそんなに嫌がるんですか?たかが仮面一枚さっさと渡せばいいと、みんな思ってますよ」
「みんなって誰!?」
「私など」
「あんただけだよ!!」
「しかし事情を説明すれば、きっと星矢も私と同じ事を言うでしょう」
「!なんで今ここにあいつの話が出てくるんだい!あいつは関係ないだろ!!」
「ありますよ。君の傷は常に彼が原因なのだから」
 さらりと、ムウが言って。
 大きく、シャイナが息を吸い込んだ。
「違いますか?」
 見えない壁をこちらに押し込むような口調で。
「シャイナ。お互いにわかっているはずです。君を見た時に私は気づいたし、私が気づいた事に君も気づいた。そうでなければこんな地球の裏まで逃げるはずが無い。たかが仮面一枚さっさと渡せばいいと、君だって思えたはずなんです」

 本当にそれが、仮面一枚の話だったのなら。
 
 ムウは言った。
「シャイナ、仮面を渡しなさい。そして蛇遣い座の聖衣を見せなさい。私から隠している傷が、君の聖衣にあるはずだ」
 それは鉄の皮膚を通り少女の頬を打つ、硬い掌のような声だった。




 ・・・。あんた、何でもお見通しなんだね。と、シャイナが言った。
 死にに行くつもりじゃなかったんだよ。本当に、そんなつもりじゃなかったんだよ。相手が神様だって何だって、私はぶっ殺すつもりで乗り込んだんだ。死のうと思って殴りかかったわけじゃない。
 でも。
「・・・死んでもいいとは、思ったよ」
 あいつを守るためならさ。
 彼女の呟きは一面の街の灯の中に落ちて消えていった。
 都会のスターヒルは闇を上に銀河を下に、昼と対象の夜を迎えて立っている。その縁には少女と男が、決して向かい合わないまま並んでいる。
 シャイナは、俯かずに遠くを見ているのだろう。彼女の姿を見なくとも、ムウにはそれがわかっていた。
「・・・どこで聖衣を壊したんです?」
「海底神殿でね。ほら、ちょうどさっき、星矢が美穂を庇いに行ったみたいにさ。あんたがポセイドンで、美穂が星矢で、星矢が私さ。それで、背中にぐさっとね」
 馬鹿らしいったらありゃしないと笑う。それが痛ましいと、思う。
「私はあんたの言うとおり、聖衣を纏う資格が無いんだろうね。実際、そうさ。だから怖かったのさ。あんたにバレたら、聖衣を返上しなきゃなんないんじゃないかって。取り上げられちまっても文句は言えない気がしたからさ」
「・・・私にそんな権利はありません」
 ムウは呟くように言った。
「君は聖闘士なのだから、纏う資格はあるのでしょう。私は修復師の立場として、君のような人に聖衣を纏って欲しくはないと言っただけです。死にに行く人に聖衣は着せたくない」
「そんなつもりじゃなかったって」
「そんなつもりではなかったとしても」
 そこで彼は突然、自分の中に抑えがたい感情が沸き上がるのを感じた。
 一体、どう言えばこのひとにはわかるのだろう。
 そんなつもりで無かった事は、私が誰より知っている・・・!
「君が死んだら、同じことです。君の傷を見ればわかる。無鉄砲で後先を考えず、誰かの為に己の命を守らないという事をする、そういう人だと。私はそういう人を死なせたくはない。死なせたくないから、着せたくない。それでも着せなければならないのなら・・・どうしても着せなければならないのなら、せめて命を守れる聖衣をと、私は」
 私は。
 だが、高く上ったその言葉を宙に残したまま、彼は絶句した。
 月に向かって梯子を上り、そのてっぺんで空に手の届かないのを知る、悲しい子供にでもなったようだった。
「・・・私は、思ったのですけれどね」
 壊れない聖衣をつくってやりたかった。命を捨てさせないために。そんな事ができるのなら、総身の血だって捧げたろう。
 しかし、叶わぬ事はある。蛇遣い座の聖衣は、また、主を守る事ができなかった。
「未熟な腕で、申し訳ありません」
 ムウはわずかに頭を垂れた。
 しばらくの間、二つの影は並んだまま、輝きを増す街の景色を眺めていた。それぞれに黙ってそれぞれに立ちすくんで、そしてそれぞれに思っていた。
 シャイナが身じろいだいだのは、どのくらい経った頃だろうか。
「・・・・あのさ」
と言った。
「やるよ」
 カンッ
 二人の間の石の上に、硬い音が鳴った。
「持って行きな」
「・・・いいんですか」
 とムウ。景色から目を離さずに言った。
 銀の仮面は投げ出された余韻を残して空気をかすかに震わせている。
「いいわけないだろ。さっさとやって、返しとくれよ。それが無きゃ聖衣だって届けらんないんだから」
「なるほど。・・・存外、この手段は君に有効でしたか」
「は?」
「いえ、なんでもありません。では少々お待ちを。そんなに時間はかけませんよ」
「いつできる?明日かい?」
「何を言ってるんです。今すぐですよ」
「・・・・・・・え?」
 相手がうっかりこちらを振り向いたのが気配でわかって。
 ムウは見返さないまま、口の端で微笑んだのであった。



 


 シャイナは呆然と見ていた。
「六時間あれば、ジャミールから道具を取ってくるなんてことは余裕でしたからね」
 と言いながら、男が何も無いはずの空間に手を突っ込むのを。そこからノミを一廷引っ張りだすのを。さらにハンマー、錐、ヘラ、ハサミ、糸ノコ、ヤスリにナイフにオリハルコン、ガマニオン、何だかよくわからないバールのようなもの・・・とにかく色々引っ張りだしては並べるのを。呆然と見ていた。どんな顔をすれば良いのかわからなかったからである。
「異次元は便利ですよ、いざというときの物置になってくれる。持つべきものは応用の利く飛ばし技です。・・・さて」
 素人目には何に使うのかさっぱりわからない道具の数々でヘリポートの一角は工房と化した。ムウはさっきまでの悄然とした態度もどこへやら、一丁やりますかと言わんばかりに腕をまくって仕事にとりかかっている。
 まずは地べたに叩きつけられたシャイナの仮面をちょん、とテレキネシスで拾い上げ、ヘリポートの灯火にかざしてつくづくと改めた。
「・・・綺麗なものです。この傷ならまあ、五分程度で直りますよ」
「ごっ!!」
 五分!!?
「嘘だよ!あんた前に直した時は一晩預かって・・・!」
 言わずにおれないシャイナである。当たり前だ。そんな時間で直るなら、素直に渡してそこらの岩陰で用でも足してりゃ良かったのだ。地球の裏まで逃げたのは何だったのか一体。
「ああ。一晩かかると思っていたんですか。なるほど。道理で過剰に反応すると思いました。不思議でしたよ、たかが仮面一枚素直に渡してそこらの岩陰で用でも足していればいいものをなぜ地球の裏まで逃げるのかと」
「う・・・だ、だって!いくらなんでも五分で終わるわけないだろ!?前のと今とで何が違うっていうんだい!」
「違いませんよ、別に。ただ女性の仮面を持ち主の前で直すと、やれ目が小さくなっただの鼻が低いだの私はそんな顔じゃ無いだの散々横から言われて面倒なので、基本、預かりで対応しているんです。今回はまあ、君なら今更そんな事を言わないだろうと思って」
「いや言わないけど。ていうかあんたにそんな事言う女がいるんだね・・・」
「あの美穂という子は言いそうなタイプに見えました」
「やめなよ。ロクに口もきいて無いあんたが何を根拠に見積もってんだよ」
「しかしスカート一枚にあれだけこだわりますからね」
 ・・・
「ちょっと待て。あんた一体いつからあの場に」
「おや。口が滑りましたか」
 ムウは笑う。
 立ったまま器用に道具を操る彼は、決してシャイナの方へ眼を向けない。
「・・・本当に五分で直せるのかい」
「直せますよ」
「信じられないね」
「未熟とはいえ、青銅のフル聖衣四体デザイン改修込み一時間で直せる腕ですから。両断の仮面一枚、わけはありません」
「あんた実は未熟だと思ってないだろ自分のこと」
「心外です」
「絶対嘘だろ五分て。そんな時間で直せるんなら、あんたの宮が聖衣の墓場と化すわけないじゃないか?」
「あれは、まあ・・・良くご存知ですね。誰に聞いたんです?」
「さあ。噂だからね。魔鈴か誰かからだと思うけど」
「なら出所はアイオリアですね。帰ったら潰しておきます」
「え・・・!?」
「冗談ですよ。さあ、これでいい」
 目を上げないままふわりと投げて返された仮面を、シャイナは未だ呆然としたまま受け取った。
 本当に、五分かそこらで直してしまった。作業の速さも凄いが五分であの道具を全部使ったらしいのも凄い。
 何より、
「・・・本当に壊れてたんだね」
と彼女が思わず呟いたほど、銀の光に宿る生命力が違っていた。
「どうです?」
「どうって・・・」
 正直、五分で直すような事してるからあんたの聖衣は壊れるんじゃないのかいとも若干思っていたのである。考えを改めざるを得ない。割れた仮面をつけたまま歩く方が恥ずかしいと言った男の正しさを、今更ながら痛感した。
「・・・ありがとう」
「こちらこそ」
「?こちらこそってなんだよ。私はあんたに手間かけさせただけだろ。散々暴言も吐いた気がするし、礼なんて」
「手間でも暴言でもいいですよ」
 と、ムウ。早くも道具を片付け始めている。
「生きていてくれるのなら。主の無い聖衣を直すのは、辛いですから」
「・・・・・」
「帰りましょう」
「・・・帰る?」
「聖域に。早く帰ってあなたの聖衣を直さなければ。ここにはまた、良い日に来ればいいでしょう」
 今日はたまたま悪い日だった。そう思わせてくれるような。
 そんな優しい声であった。
 




 アイオリアとミロはまさに「腐っても聖闘士」という言葉が相応しい様で飛び起きた。
 ムウが消えた後、何だかんだで要するにゴロ寝していただけという大変な腐れようの二人ではあったが、それでも友人の小宇宙を察知するだけの聖闘士らしさは残っていた。
『ムウ!』
 声を合わせて白羊宮から飛び出すと、
「おや」
と特に驚きも喜びもなさそうな顔が石段の下からこちらを見上げた。
「いたんですか。ガラクタの気配しかしなかったので、てっきり上に戻っているものだと」
 よく考えればひどい台詞をさらりと言う、ムウ。よく考えない相手だと見越してのことであろう。
「!おい、お前それ・・・」
「おいまさか」
 相手は見越された通りよく考えなかったが、しかしそれを彼らのせいにするのはいささか酷という物で、なぜなら上って来たムウの背には堂々輝くパンドラボックスがくっついていたのである。
 雨上がりの午後の日差しを弾くその色は、白銀。
「お前、シャイナをどうした!?」
 アイオリアが叫んだ。
「人聞きの悪い」
 ムウは機嫌を損ねた顔をした。
「どうもしませんよ。彼女は修行場に帰ってます。これは、同意の上での提出です」
「何に同意してフル聖衣を提出することになったんだ。お前が欲しがってたのは仮面だろうが!?」
「別に欲しがってたわけではないですが。あれはもう直しました」
「直した!?どうやって」
「同意の上での提出を受けて」
「っ、おいムウ、真面目に答えんと・・・」
「待て待て待てスカーレットニード」
「いやお前も待て。俺も待つからお前もそれは待てやめろ」
「すみません、宮に入ってもいいですか」
「一番待て。お前、少しは事情を説明しろよ・・・」
 だがムウは、説明することなんて何も無いですよ、と言うのだった。
「単に説得を重ねただけです。他にどうしろと」
「あのシャイナが説得されて仮面を出すとは到底思えん。どんな説得をした?言葉通りの説得ではあるまい?」
「言葉通りの説得です。強いて他の言葉を使うなら・・・まあ、泣き落とし、ですか」
『泣き落とし!?』
「もういいでしょう。早く仕事にかかりたいので」
 まだまだ山ほど聞きたい事がありそうなアイオリアとミロの間を強引に通り抜けたムウは、しかし「あ、そうでした」と足を止めて振り向いた。
「アイオリア」
「ん?」
「下で魔鈴が呼んでいました。あなたがタナカの面倒を見ないというので、それはもうカンカンになって本当に」
 う、と目に見えて怯むアイオリア。
「そうか。俺がなぜタナカの面倒を見なければならんのか聞いてくれたか」
「まさか。すぐに伝えるからすぐに行くはずだと答えました」
「行くわけあるか!俺は聖闘士の面倒をみるだけだ!タナカの面倒を見るために修行に付き合ってるわけではないわ!おいミロ、お前が今待ってるそのスカーレットニードルタナカに撃っていいぞ。宜しく頼む」
「断る。要するにタナカを俺に押しつけたいだけだろう!?誰が頼まれるかそんな仕事!」
「そんな仕事とは随分だな。そんな奴らを俺が今までどれだけ相手にしてきたと思ってる!お前らこそ俺に全部押し付けていたくせに!俺がいなかったら今頃は、教皇に妻との仲をとりもってもらいたい男ども天蠍宮くらいは容易く突破されていたわ!」
「まあ、誰も相手にしないでしょうからね・・・」
「いや、たぶんシャカがなんとかするだろう。あいつは得意だし・・・人の心折るの」
「とにかく!手伝え!たまには!白羊宮で寝てる暇があったなら!」
「お前も寝てただろうが・・・」
 とミロは力なく反論したが、アイオリアに首のあたりを掴んで引っ張られると最早否とは言えなかった。しぶしぶ石段を下りて行く。
 ムウも再び彼らに背を向けた。
「ムウ!」
 アイオリアが投げかける。
「お前が手荒な事をしたとは思わんがな。だが、泣き落としの真似などできる性質でもあるまい。言いたくないなら言わんで良いが、嘘はつくなよ」
「・・・・・・」
「それと。シャイナは女だ。何にせよ、加減はしろよと言っておく」
「・・・余計な世話です」
 ややあって返って来たムウの言葉には微妙に含むような響きがあった。
「彼女が女性であることは、あなたよりも私の方が、ずっとよく知っています」
 そして宮に消えて行った。
 


 その後。
「・・・どういう意味だ?」
「さあ・・・」
「あいつら何かあったのか?」
「何かとは、何だ」
「・・・何って、一晩あったんだぞ。そりゃ」
「やめろ。考えるな。考えるとセクハラになる」
「なるのか!?考えるだけでも!?それはナシだろ、男の人生厳しくなりすぎる!」
 修行場に行きたくない事もあいまって。
 アイオリアとミロの不毛な葛藤は、怒り狂った魔鈴が石段を駆けあがってくるその時まで、一歩も動かず延々続いていたのであった。
 



BACK