私の名前は。42歳独身男。先日まで東京新宿のとある文具会社本社に勤めていた営業サラリーマンだが、業績不振に不況のあおりをくらってこのたびギリシャに飛ばされた。新型ボールペンの海外シェア獲得を望めなければ即刻解雇される危機に瀕しており、42歳は男の大厄、来年に後厄を控えた今、人生なめてかかるわけには行かない。
が、業績不振だったのは私のせいというより、むしろ本社の営業方針のせいだということははっきり言っておかねばなるまい。
保険の勧誘員じゃあるまいし、住宅地を訪問してボールペンを個人セールスしろとは一体どういうわけなのか。
新聞勧誘だと思われること数十回、宗教勧誘だと思われること数百回、「ボールペンぐらいタダで置いていけ」と言われること数千回。長きに渡る無理な戦略に、私は身も心も疲れ果てた。
今回の異動はいい機会かもしれない。
どうせ妻も子もいないし、つき合ってる女もいないし、42歳でヒラの私にバーの女がたかるわけでもないし、社宅を引き払えば家無し金なしババアなしという引かれようにも後ろ髪のない状態だ。
逃避と言われても仕方ないが外国でやり直すのも転機の一つだと思ったのだ。その時は。
しかし私は厄年の恐ろしさを甘く見ていた。
現在、ギリシャ目的地にたどり着いた私の前には地の果てまで荒野が広がっている。
足元にはどう考えても人間のものに違いない頭蓋骨が転がっており、それも「両手で数えられないほど」とかそういう生易しい数ではなく、野鳥友の会に依頼しても数え切れないくらいなので、一瞬強制収容所か何かに送り込まれたのかと思った。
ふざけるなよ本社。こんな荒地で一体誰にボールペンを売れと言うんだ。
・・・・いや、それともこれはあれか?企業の非情さというやつで、退職金を惜しんで私を秘密裏に抹殺するつもりなのか!?
考えてみれば「家なし金なしババアなし」は天涯孤独と同意語だ。死んでもアシはつきにくい。
私「・・・・・・・」
思わず呆然と立ち尽くす私の横を、熱風が駆け抜けていった。
ネクタイと共にバーコードスタイルの髪がはらはらとなびいていた。・・・・
「そこで何をしているのですか?」
ふいに背後から声をかけられて仰天した。
振り向けば、なんだかごっつい金の鎧をまとった眉の丸い男が立っている。
いつのまに・・・
私「あ、あなたは・・・・?」
ムウ「私は牡羊座のムウ」
私「ありえす?」
ムウ「どちら様ですか。この土地の方ではないでしょう。見慣れない格好ですし」
キンキラキンの人間から夏用スーツをとやかく言われる筋合いは無いと思ったが、得体が知れないので聞かなかったことにした。
私「私は日本から来た、と言うものです・・・・」
ムウ「何しにここへ?聖闘士になりたいというのですか、その年で?」
私「え?あ、いや、私はただ我が社の製品をお買い上げいただければと参上した次第でして」
ムウ「セールスマンですか。ガマニオンなら間に合ってますよ」
私「なんですかそれ・・・;」
ギリシャの特産品だろうか。
私「ええと、その、もしよろしければ製品についてご説明申し上げますが、お時間をいただけますでしょうか?」
困惑した私は、しかしそんな逆境においてもセールスマンとしての己の立場を忘れはしなかった。
たとえ相手が文字を持たない先住民であろうと新型ボールペンを売って帰る!
幸い、ムウというこの男は私の話に興味を持ってくれたらしかった。
ムウ「手短にはなしてくだされば、説明を聞きましょう。注文を受けていた仕事を届け終わったところで暇ですから」
私「ありがとうございます」
私は心の中でガッツポーズをした。
どうやらこの男も何かの商売人らしい。
住宅地の個人販売では振るわなかったが、相手が会社ならば大口の取引先として開拓できるかもしれないではないか。
ここがセールスマンの正念場である。
とにかく、当社の新型ボールペンを自信を持って勧めなければならない。従来のボールペンよりも格段に効率のよい造り、耐久性に優れた素材、そして滑らかなインク。いかに当社製品が優れているかを手際よく、しかし確実にしらしめるのだ。
よし!
胸に気合を入れると、まずは何食わぬ調子で探りを入れてみた。
私「えー、あなた様は普段、どのような筆記具をお使いになっていらっしゃいますか?」
ムウ「筆記具?というと、物を書く?」
私「そうです。書類ですとか、あるいはちょっとしたメモですとか。どのようなペンをお使いでしょう?」
ムウ「ああ、それなら羽ペンです」
論外だった。
羽ペン?羽ペンだと?日常的に羽ペンだと?
まさか平成の御世にそんなもの使ってるタイムトラベラーが存在しようとは・・・
私「・・・・羽ペン・・・ですか?」
ムウ「羽ペンです。それが何か?」
私「ボールペンなどをご利用になったことは・・・?」
ムウ「ありません。あれだと買わなければならないでしょう。羽ペンなら鳥をとれば作れますから」
自作かよ。
なんなんだこいつは・・・・猟師でもやってるのか?
従来のボールペンと比較しようにも従来の品を知らないとは予定外だった。
っていうかボールペンを買う金すら出さない人間にどうやって新型ボールペンのセールスすればいいんだ。
ムウ「それにそもそも、私達はあまり物を書きませんし・・・・」
私「で、ですが、お仕事上の書類ですとか」
ムウ「本業でも副業でも書類とはかけ離れたところで仕事をしていますのでね」
私「お友達に手紙などは」
ムウ「テレパシーで済むので」
婉曲に迷惑がられてるのだろうか。
いや、それともこれはかなり直接的な嫌がらせだろうか。
私「・・・・・・では、当社の製品は必要無いでしょうか。新型のボールペンなんですけども」
ムウ「そうですね。私には全然。オリハルコンを叩いても欠けない金槌なんかだと嬉しかったのですけれどね」
私「はあ;」
ムウ「ですが」
と、男は首をかしげて、
ムウ「ひょっとするとサガあたりが重宝するかもしれません。どうですか、これから聖域に来られては」
私「聖域?」
ムウ「私達の住処です」
私「!ぜひ!」
私は迷うことなく話に飛びついた。
ボールペンのことはともかくとして、人里に行けるのはありがたかったから。
だがついた先は人里ではなかった。
私「あの・・・・ここは・・・・?」
ムウ「聖域です」
どう見ても遺跡にしか見えないのだが・・・ここが住処って・・・・・ホームレスか?
困惑する私の前を、その時長身の女性が通りすがった。
ムウ「アフロディーテ」
アフロ「?」
振り向いた彼女は、私が未だかつて見たこともなく、これから先も見ることが絶対無いぐらいの美人であった。
飛ばされてきて得したと思った初めての経験である。
ムウ「こちらの方は、日本からいらしたセールスマンです。サガに見せたい商品があるそうなので、双魚宮へ帰るところなら、ついでに彼に降りてくるよう伝えてもらえませんか」
アフロ「・・・・ん。わかった」
意外と低い声で答えるなり、彼女は姿を消した。
戻ってくるには1分もかからなかっただろう。彼女はその他大勢の男達とともに再び姿を現した。
ミロ「なんだ?なにか来たのか?」
シャカ「ムウ、君かね。この貧相な男を連れてきたのは。いかにも大したことなさそうな人間ではないか」
バラン「人を見かけで判断するな。こう見えて凄腕の聖闘士かもしれん」
シュラ「しかし小宇宙もまったくと言ってよいほど感じない。聖衣も持っていなさそうだが」
デス「こんなスーツ着たオヤジが聖闘士のわけねえだろ。誰かの保護者じゃねえの?」
ミロ「誰だ?俺ではない」
カミュ「私もこんなのを父もった覚えは無い」
こっちこそあんたらみたいなのを息子に持った覚えは無い。
ムウ「・・・アフロディーテ。私はちゃんとセールスマンと言いましたよね?何を吹聴したんです」
アフロ「私は別に何も。サガに『面識の無い男が下まで来てるから会ってやれ』と言っただけだ。たまたま居合わせたミロが面白がって触れ回ったら、皆が下りて来たのだ」
ムウ「それで、肝心のサガは?」
アフロ「『面識の無い奴と会う義理はない』と言って来てくれなかった」
ムウ「何しに行ったんですか貴方。・・・もういいです。私が呼びに行ってきますよ」
ムウとアフロディーテがしゃべっている間に、私はとりあえず他の男たちを相手に自己紹介を済ませた。
ミロと言う名の金髪の青年が最初に興味を持ってくれたようだった。
ミロ「セールスマンということは、何かを売るのだろう?何を持ってきたのだ?」
私「よくぞ聞いてくれました。実はこのボールペンなのですが・・・」
私は新型ボールペンのプレゼンをする。
私「・・・・という、実に画期的な次世代商品なのです!いかがですか?あなたも御一つ」
ミロ「面白そうだな。いくらだ?」
私「五千円です」
ミロ「安いな」
デス「高ぇよ!!」
やおら横から、ガラの悪そうなのが口を出した。
デス「ミロ!お前、世間の物価も知らないのか!?しかも別に金持ちでもないクセしてその台詞はなんだ!!」
ミロ「高いのか?でも、どうせ俺、買わないしな」
買えよ。値段まで聞いといてコイツ・・・;
デス「おい、オヤジ。てめえ、それどう考えてもぼったくってんじゃねえのか?コラ」
私「め、滅相も無い!きちんとコスト計算して算出した妥当なお値段で・・・・」
デス「ボールペン一本五千円がどう妥当なんだよ!」
シュラ「デスマスク。一般人を相手に怒鳴るな」
アフロ「そうだ。ちゃんと五千円分の価値があるから売ってるのだろう?そうだな、オヤジ」
美女にオヤジ呼ばわりされるのはかなり微妙だったが、私は必死で頷いた。
アフロ「見ろ。私は一つ買うことにする」
デス「馬鹿かお前!?騙されてるっつーの!!」
アフロ「うるさい!人の買い物に口出しするな!オヤジ、一つくれ」
私「ありがとうございます!」
私は頭を下げ、ボールペンを差出し、相手の金を受け取ろうとした。
よし!一つ売れた!
・・・と思ったのだが、次の瞬間。
デス「・・・・・・その金があれば今晩一緒に飯食いに行けたんだけどな」
アフロ「すまんオヤジ。やっぱりやめだ」
何ぃ!?;
アフロ「今のは本当だな!?本当に連れてってくれるのだろうな!」
デス「この間うまい店みつけたからな」
アフロ「ならこの五千円はそれにとっておく」
デス「そうしろ」
アフロディーテの念頭からは既に私のことなど消え去ったらしい。
いそいそと金をしまうなり引っ込んでしまった。
銀髪の男がちらりとこちらを振り返り、フン、と鼻で笑う。
・・・野郎、死んでしまえちくしょう・・・
シュラ「・・・・すまんな。あいつらは本当にどうしようもなくて・・・・・その・・・・・俺でよければ一つ買おうか」
バラン「お前がそこまですること無いだろう;。落ち着けシュラ」
シュラ「しかし、仲間が醜態をさらす分、どこかで挽回しなければ。俺たちがアテナの聖闘士である以上、女神の御名を汚したままにはできんだろう?」
リア「シュラ、お前はそうまでアテナのために・・・・!わかった!俺も一つ買う!!」
バラン「お前ら購入動機が間違ってるぞ。冷静になれ!」
リア「黙れアルデバラン。目の前で同胞が名誉挽回しようとしているのを見て金も払えないような奴はもはや男として認めん!」
私「あの、すみません・・・言ってる意味も理屈もよくわからないんですが、私は別に押し売りじゃないので・・・そんな罪滅ぼしみたいな感じで買われるのはちょっと・・・・・;」
散々説明した新型ボールペンの性能の意義って一体。
シャカ「まったくだ。そもそも、よりによって文にしたためるような情緒も持ち合わせていない修行馬鹿二人に筆記用具など必要なのかね?魔鈴に恋文でも出す気か?」
リア「貴様に果たし状を出すのもいいな・・・・」
私「・・・そういう目的でうちの製品使わないで下さい」
ミロ「手紙を書く人間なら、カミュではないか?しょっちゅう氷河に膨大な量を書いてるだろう。なあ」
同意を求められたのは赤い髪の、そこはかとなく湿っぽい青年だった。
彼はゆっくりと迷うように頷き、
カミュ「確かに私は書くが・・・・紙代とインク代がかさんで新しいペンを買う余裕が無い・・・」
シュラ「なら、俺が買ってお前にやるというのはどうだ」
カミュ「ありがたいが理由不明のプレゼントは受け取れん。多少の不明ならともかく、物には限度があると思う」
シュラ「・・・・仮にも隣人にそこまで言うかお前は・・・・」
うやむやのうちに、ボールペンを買う話は流れて消えて行った。
いかん。このままでは日本に帰れないではないか。一本も売らないままで、何の収穫も無く社に帰れるわけが無い。
どうしたらいいのだ!どうしたら・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・シャバを変えよう。それが一番だ。
私「あのー・・・それでは今回はご縁が無かったということで・・・私はそろそろズラからせていただきたいのですが・・・」
デス「帰るのか?一つも売れてないのに?」
誰のせいだこの蟹マスク野郎。
デス「国に帰ったら上司に怒られるんじゃねえの?」
ミロ「なに?怒られるのか?それはいかんな。なんとかしてやりたいが」
だったら買え。
カミュ「こういうのはどうだ?売ることができなかったのだから、逆にここで仕入れをしていけばいい。国に帰ったらそれを売って儲けることができよう」
私「いや、私べつにキャラバンじゃないですから・・・売り専門で・・・・」
シャカ「仕入れならば協力してやってもいいぞ。この間書き上げた説法書の原稿を預けるから、帰って出版してくれたまえ。印税は5割でいい」
私「要りません。そんな物」
カミュ「私は、炎天下でも溶けない氷をやる。一口サイズだが」
私「ロック用ですか?」
カミュ「いや。酒を注ぐと酒の方が凍るから・・・・・特に何も使い道は無いのだが・・・・」
いらねえって;
デス「じゃあ俺は壁の死に顔一つ譲ってやるか。一番不気味なの持ってけ」
アフロ「私は三色セットでバラをやる」
ミロ「蠍はどうだ?リストリクションで動けなくしてあるから安全だぞ?」
シュラ「素手で石から切り出したダイスでよければ持っていけ」
リア「俺が修行のときにつけていた左腕のバンドだ。そろそろ作り変えの時期だから、古いのはお前にやろう」
バラン「俺は何もやるものが無いが・・・手形でいいか?」
・・・・30分後。
ムウ「すみません、遅くなりまして。・・・おや?もう帰るのですか?」
私「はい。帰ります。・・・・というか、帰らせてください、お願いします」
サガ「待たせて失礼をしたが・・・・売れたのか?セールスに来たと聞いたが」
ミロ「いや、仕入れになったのだ」
サガ「なに?」
デス「持ってきたもんが売れなかったから、ここで何か仕入れて帰りたいんだと」
言ってねえ。そんなことは一言も。
ムウ「私がいない間にそんな事になってたんですか。なら、これを持ってって下さい。うちのチラシです」
サガ「なんだかよくわからんが・・・・・何かやらねばならないのだな?」
そんな、人を乞食みたいに・・・
抗議と拒否の言葉を言おうと口を開けかけた私だったが、目の前に詰まれた荷物の上に彼がチョコンと乗せたものを見て憤慨の気持ちすら萎えた。
サガ「もって行け」
と言って彼が最後にくれたものは、実に見事な羽ペンであった・・・・・
私の名前は。要らないと断ったものを一つ残らず押し付けられて荒野を後にする42歳。
今は帰国に怯える気持ちは無い。
次にどこに飛ばされるかはわからないが、どんなところでもここよりはマシだろう。
しかしとりあえず、帰国したら真っ先に神社で厄払いをしてもらうつもりである。
めっきり重くなった鞄と心を抱えて見上げるギリシャの空は、なぜか涙の色をして見えた。