アフロディーテが眼を覚ましたのは日が沈んですぐの頃だった。
 ちょうどシュラが鍛錬を終える時間で、寝室から出てきた魚と、一浴びしようとバスルームに向かった山羊は廊下ではちあった。

シュラ「起きたのか」
アフロ「起きた。・・・・シュラ、お腹がすいた」
シュラ「待っていろ。風呂から出たら何か作ってやる」

 夫婦というより父と子の会話になっている二人。
 だがアフロディーテは一応、良き妻になるという初心を忘れてはいなかったようで、シュラがシャワーを浴び始めたとたんに外から何か言ってきた。

アフロ「・・・・・か?」
シュラ「なに?」

 ざあざあ言うシャワーを一度止めるシュラ。

シュラ「聞こえなかった。もう一度言ってくれ」
アフロ「お背中流しましょうか?」

 きゅっ!ざざざざざざああああああーーーー。

シュラ「ユニットで背中流すもクソもあるか!!余計な気を回すな!大人しく外で待っていろ!!」

 蛇口を全開にして怒鳴り返したシュラは、掻き乱された頭を沈めるべく思い切り冷水をかぶったのだった。




 シュラがほっとしたことには、アフロディーテはちゃんと大人しくソファに座って待っていたのだった。勝手に料理を始めて勝手に指を切って勝手に天ぷら火災起こして勝手にガス爆発されていたらどうするという不安のもと早々に行水を切り上げてきたのだが。

シュラ「おい。何か食べたいものはあるか?」

 聞くと、アフロディーテはにっこり笑って答えた。

アフロ「何でも、君の作ってくれたのでいい」

 これは意外だったのでシュラは思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。

アフロ「・・・・なんなのだ?」
シュラ「いや。お前の事だからてっきり無理な注文つけてくるかと思ったんだが」
アフロ「無理な注文していいのか?」
シュラ「駄目だ
アフロ「・・・・・。デスマスクはいつも私の意見なんか聞かないで自分の食べたいものを作るのだ。だから私はあんまり自分で注文を考えなくなった。作ってる最中に台所に行って今日のメニューは何か聞く方が楽しいのだ」
シュラ「そうか」

 シュラは納得した。アフロディーテはたぶん、デスマスクの食べたいものを自分も食べたいのだ。それが嬉しいのだろう。
 あいつの作ったものならハズレはないだろうし・・・とシュラは考え、前夫の料理で舌の肥えた魚を自分が満足させてやれるかどうかいささか不安になった。

アフロ「シュラ。私もシャワーを浴びたいのだが」
シュラ「好きにしていいぞ」
アフロ「着替えを貸してくれ」
シュラ「着替え?双魚宮からとってくればいいだろう」
アフロ「・・・・新妻の夜道の一人歩きは危ないのだ。もしかしたらヨリを戻そうとしている蟹が横這っているかもしれないし・・・いないかもしれないけど・・・」
シュラ「いないだろう。小宇宙を感じん。あいつはまだ浮気から帰って来ていないのではないか?」
アフロ「!!小宇宙がなくてもいるのだ!きっといる!だから私は外に出ない!服を貸せ!」
シュラ「・・・奥の部屋から勝手に選んで来い」

 妻の逆上っぷりに心情を察した夫はそう言ってやったのだった。
 しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。
 シュラは料理に取り掛かる。アフロディーテが出てくる前に作っておいてやろうと思い、できるだけ早く仕上がるメニューにしたのだが、しかし料理が出来上がってもたっぷり1時間はアフロディーテは出てこなかった。

アフロ「シュラ、お待たせ」
シュラ「遅い!!何時間シャワー浴びていたお前は!!」
アフロ「・・・何をそんなに怒るのだ。リンスもトリートメントも無いから2時間しか入ってなかった」
シュラ「『しか』?水道代取られたいか!俺と暮らすなら半分以下に短縮しろ!」
アフロ「そんな・・・・!時間が半分になったら半分しか洗えないのだ。シュラ、上と下どっちがいい?」

 シュラは新妻を叩き倒した。

アフロ「ううっ・・・・ひどい・・・・ドメスティックバイオレンス・・・・」
シュラ「教育的指導だ阿呆!!しょうもない事を俺に聞くな!というかどっちも洗え!・・・まったく。お前の長風呂のおかげで料理はすっかり冷めてしまったからな」
アフロ「温めて欲しい。君の愛情で」
シュラ「・・・・どこか壊れたか?お前;」
 
 カチ。
 ガスコンロの栓をひねってスープを温め直すシュラ。それを見ていたアフロディーテはそそっと背中に張り付いた。少し背伸びをして広い肩に顎を乗せ、

アフロ「今日のご飯は何なのだ?」
シュラ「気色悪いマネをするなーーーっ!!!」
アフロ「き、気色悪い・・・・・・・そんなに怒鳴る事ないではないか!ちょっと甘えてみただけなのに!」
シュラ「黙れ!もうお前は台所から出ていけ!二度と入ってくるな!」
アフロ「・・・・・・・ううっ、横暴亭主・・・・」

 アフロディーテはすごすごと出て行った。



 夕食はスープとパンと一皿の肉料理。手の込んだものではない。
 一口食べたアフロディーテがいきなりくすっと笑ったので、匙加減を間違えたかとシュラも慌てて一口放り込んだ。

アフロ「いや、違うのだ」

 と、それを見た彼はますます笑う。

アフロ「君は何も失敗して無い。おいしいな、これは」
シュラ「・・・・なら、なぜ笑った?」
アフロ「何でもない」

 だが、シュラの不満そうな顔に気づいていい足す。

アフロ「・・・・デスマスクのより味が薄いと思ったのだ」
シュラ「そんなことが面白いか?」
アフロ「面白い。君のは優しい味なのだ」
シュラ「・・・・・・また妙な事を」

 アフロディーテはシュラの服の中でもかなり大きめなものを選んで着ているようだった。
 向かい合って食事をしながらそれに気づき、だぶだぶの襟元からのぞく白い肌に思わず目が行ったのを自覚してその場で切腹したくなるシュラ。
 どうしてこいつは男の癖にこんなに肌が白かったり睫が長かったり口についたソースを人差し指でぬぐったりするのだ、男なら手の甲で拭え手の甲で!と胸の内で観察の細かい八つ当たりをする。

アフロ「?どうしたのだ?ナイフの持ち方が変だが」
シュラ「・・・・いや。別に。それよりお前、どうしてそんなサイズの合わない服を着た・・・?もう少しマシなのがあったろう」
アフロ「君は何を考えているのだ。大き過ぎな方が貧乏学生の同棲という感じで雰囲気が出るに決まってる」
シュラ「お前が何を考えているんだそれは」
アフロ「それにこの服はぶかぶかだけれどあったかいし、君の匂いもするし」
シュラ「・・・・・・・」
アフロ「でも、さすがにあれだな。下着をはいていないとすーすーする」
シュラ「履けよ!!!!」

 怒鳴った拍子に思いっきりスープを吹いたがそんな事にかかずらわっている場合ではなかった。

アフロ「だって、まさか下着まで借りるわけにはいかないではないか!君、嫌だろう?」
シュラ「服を直穿きされる方がよっぽど嫌だ!!」
アフロ「じゃあ・・・・下、脱ぐ?」
シュラ「殺すぞ。俺は履けと言ったのだ、脱げとは言っとらん!!というかそれこそ双魚宮から持ってこい!!」
アフロ「面倒なのだ。すーすーするだけで問題は無い。私はちゃんと風呂で体を洗ったからきれいに履いているし、安心して欲しい」
シュラ「俺はそういう事を言ってるのでは・・・・」
アフロ「ならどういう事を言ってるのだ?」
シュラ「・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・勝手にしろ」

 自分の心理面を説明するのはある種の敗北だと気づいたシュラ。問い返されて言葉を濁し、結局逃げた。これも十分敗北である。

 さて、食事が終わると二人はいきなりする事が無くなって、残す行事はあと一つというところまで来てしまった。すなわち、寝る。
 シュラは不必要に時間をかけまくって皿を洗ったがそれにも限度がある。とうとう片づけを終えて半ば途方に暮れながら台所から出てきた時、アフロディーテはソファに腰掛けてぼんやりと磨羯宮の入り口を見ていた。
 二人の間に沈黙が落ちる。
 アフロディーテは時間が経つにつれてそわそわし始めた。心中は一目で伺えた。デスマスクを待っているのだ。
 そんな妻を少し離れた椅子にかけて眺めながら、その倍くらいの勢いでシュラもまたデスマスクを待っていた。
 お前さっさと来て引き取れよこの誤配という心境である。
 静かな・・・しかし掻き乱された雰囲気の中で時ばかりが経過した。
 経過して経過して経過して。
 そして。

アフロ「デスマスクの馬鹿!!!」

 何の前触れも無くアフロディーテが怒鳴り、泣き出し、しゃくりあげながら飛んできてシュラに抱きついたのだった。

シュラ「な、なんだなんだ!」
アフロ「デスマスクはもう本格的に私を捨てたのだ!私の事など忘れてしまったのだ!夜になるのにぜんぜん迎えに来ない!」

 もはや磨羯宮に夫婦の愛の巣の面影は無い。あるのはただ迷子預かり所としての本質のみである。

シュラ「いや・・・・・もう少し待てばたぶん来る・・・・・・と思う」
アフロ「いい!私は待ちくたびれたのだ!こうなったら最後の手段で身も心もシュラの物になる!」
シュラ「落ち着け。頼む」
アフロ「私は落ち着いてる!」
シュラ「どこが!」
アフロ「落ち着いてる!」
シュラ「嘘をつ・・・・っ!?」

 シュラは固まった。
 アフロディーテの手が自分の顔をひっつかみ、唇が思い切り押し付けられていた。
 やけくそに始まったキスは・・・・・・わずかの時の後、怖いほどの静けさで終わる。

アフロ「・・・私は落ち着いている」

 唇を離してそう囁いたアフロディーテの瞳は涙で真っ赤になっていた。

アフロ「だから・・・・・今は君が好きなのだ」

 そんな言葉は嘘に決まっている。見ればすぐにわかるのに。
 だがその時初めてシュラの心は動いたのだった。今まで彼に示されてきたあらゆる誘惑のどれよりも、赤くなったアフロディーテの瞳が彼を捉えた。
 悲しみと嫉妬で染め抜かれた瞳。どうしてデスマスクはアフロディーテにこんな眼をさせるのだろう。させられるのだろう。
 自分ならば、誰かにこうまで愛してもらえるなら決してそれを捨てたりしないだろうに。
 デスマスクは本当に大馬鹿者だ。

シュラ「・・・・・・嘘をつくな」

 シュラは両腕をアフロディーテの背に回してきつく引き寄せた。赤い目が大きく丸くなるのを見下ろした。
 そして常と変わらぬ口調で、ただ真っ直ぐに告げた。

シュラ「・・・だが、たとえ嫌でもお前は俺にしておけ」




 デスマスクを羨ましいと思った。どんなに虐げられても一途に想い続けるアフロディーテを健気だとも思ったし、正直可愛いと思った。
 手に入れたいと思った。それは真実である。が、しかし。
 実際にアフロディーテを抱えてベッドに運び込んでみると、やはり本当にこれでいいのかと果てしない疑問が沸きあがって仕方の無いシュラだった。
 彼は今、ベッドの上で横になってアフロディーテを抱きしめたままなすすべもなく沈黙している。

アフロ「・・・・・・シュラ」

 あんまり長く待たされるので、とうとう抱きしめられている方が小さな声で言った。

アフロ「その・・・・・確かにこれも『抱く』と言うのだろうけれど・・・・・・君は本当に満足なのだろうか」
シュラ「・・・・お前、ストレートに胸を抉る質問をするな・・・」
アフロ「だって」
シュラ「待ってくれ。もう少し考えさせてくれ」
アフロ「・・・何を妄想しているのだ?女になった私とか?」
シュラ「阿呆!!今さらそんな妄想してどうなる!!脱がしたとたんに現実に直面するだけだろうが!俺が考えたいといっているのはだな、男のお前を男の俺が抱いて本当にいいのかという・・・」
アフロ「それこそ今さらではないだろうか。君にとって、男同士の壁はそんなに厚いのか」
シュラ「お前とデスマスクが薄すぎる。お前らのは壁というより紙だろう。俺は・・・・やはりどうしても・・・」

 腕の中に感じる柔らかくしなやかな体。伝わってくる温もり。ほのかに香る石鹸と花の匂い。
 しかしそのどれよりも、長年の修行で培われたシュラの理性は強い。

アフロ「・・・なら、色々試してみるのだ」
シュラ「試す?」
アフロ「うむ」

 アフロディーテはこくんと頷き、目の前の肩に腕を回すとキスをした。小さな舌が歯の間から差し入れられたのを感じてシュラは驚く。それは彼の舌に触るとまるで火に触れたようにびくついて引っ込んだが、すぐにまた勇気を出したように恐る恐る口内へ忍び込んできた。
 
アフロ「・・・どう?」

 暗い中でも、その顔が赤く染まっているのがわかった。シュラが黙っていると彼はもう一度自分から淫らなキスをした。
 体がかすかに震えている。恥ずかしいのだろう。
 そう思ったとたん、意識せずシュラは白い喉に指を這わせた。そこから、ん、と柔らかい音が漏れた。

アフロ「シュラ・・・」

 潤んだ眼をしてすがるように見上げてきたのを、自分の下に押さえつけた。
 覆い被さるように唇を奪い、綺麗な顎の曲線に舌を這わせ、首筋の柔らかいところを思い切り吸った。

アフロ「んっ・・・・あ・・・・ま、待って、待つのだシュラ」

 突然変わった相手の態度に怯えたのか。アフロディーテが熱くなりかけた吐息の中から訴えた。
 だが、シュラはきかない。

シュラ「お前から仕掛けておいて今さら何を言う」

 無骨な手が服をめくり上げると、白い肌が夜の中に晒された。シュラの眉がかすかにひそむ。肌の上には生々しいほど赤く色づいた跡が点々と散っていたのだ。
 ・・・・そういえば奴との旅行から帰ってきたばかりだったな、と思い出しながらその一つを指でなぞると、魚はびくんと震えてはっきりした反応を見せた。
 さすがにデスマスクはアフロディーテの体を知り尽くしているようである。刻まれた跡の一つ一つが実に的確な弱点の印だった。
 
アフロ「い・・・や!んっ、シュラ、待って・・・・!」
シュラ「何を待つんだ?」

 執拗にその弱点をいじってやりたくなるのは嫉妬のせいだろうかと自分でもよくわからない。

アフロ「待って・・・・・ん、んっ、あ・・・やんっ・・・!」

 アフロディーテの必死に押さえた嬌声と身悶えは信じられないほど扇情的だった。なるほど、デスマスクがこの魚をかき鳴らしたくなる気持ちが今初めてはっきりとシュラにも理解できる。なんと心地よく反応する体だろう。
 鎖骨を甘く噛んでやるとほとんど濡れたような声で鳴く。指先で胸の小さな突起を弄ぶとたまらない様に腰を震わす。その腰を撫で上げると弓のように身をしならす。

アフロ「シュラぁっ・・・・!待ってって・・・・言ってるのに・・・・」
シュラ「だから何を待つんだ?」

 聞き返しながらぐっと下腹部に手を差し入れた。とたんに、

アフロ「いや!待って・・・・っ!」

 喉を震わせて叫びが上がった。
 アフロディーテの眼から涙が転がり落ちるのが見えたので、シュラは愛撫を一時中断して優しく唇を重ねてやった。
 耳朶を軽くくすぐりながら聞く。

シュラ「・・・・答えろ。俺は何をいつまで待てばいいんだ?」
アフロ「うっ・・・・・っく・・・」
シュラ「少しなら待ってやる。だから一々泣くな」
アフロ「・・・・・・・・・っ」

 アフロディーテが言われたとおりに涙を止めようと頑張るので、シュラの胸に何か愛しさのような物がこみ上げてきた。

シュラ「怖いか?」
アフロ「・・・・・・・・ん」
シュラ「悪かったな。つい夢中になった」
アフロ「・・・・・・・・ん」
シュラ「何が怖いんだ?」
アフロ「・・・・・・・・・・・・・・」

 沈黙から、シュラは推察した。

シュラ「まだ奴の事が気になるのか」

 一瞬置いて。
 まったく思いがけず、アフロディーテが微笑んだ。
 それは泣き笑いの顔だった。

アフロ「・・・・・・・・気になる」

 小さな声だったがはっきりと言った。
 細い指が所在なげにシュラの腕を掴んだ。

シュラ「アフロディーテ・・・・」
アフロ「どうしたっていつになったって、傍にいない時ほど気になる。君に抱かれているのに、誘ったのは私なのに、本当に抱かれるのだと思えば思うほど・・・・・私だって泣きたくなんかないのだ。でも・・・・」

 唇が震えて微笑が消える。

アフロ「・・・・きっと今頃デスマスクは泣いてるから、それが悲しくて仕方ないのだ」

 ・・・・しばらく、寝室にはアフロディーテのすすり泣く声だけが響いた。
 シュラは黙ったまま静かに彼を見つめていた。欲求は静まって、再び理性が体の内側を塗りつぶしにかかっていた。
 デスマスクが泣いているはずはない。一人にされたぐらいで泣くような男ではない。怒り狂うことはあってもだ。
 だがアフロディーテが絶対に泣かせたくない人間がデスマスクなのだと、それは認めざるを得なかった。
 シュラはそっと自分より一回り小さい体を抱きしめた。

シュラ「・・・・やめてやるから泣くな」
アフロ「・・・・・・っ」
シュラ「デスマスクなら大丈夫だ。俺が保証する」
アフロ「・・・・・・・」
シュラ「朝になったら戻ってやれ。今夜は俺のところにいろ。一晩ぐらい心配させてやってもバチは当たらんだろう」
アフロ「・・・・・・・」
シュラ「泣くな」

 ん、とも、う、ともつかない不明瞭な返事があって、すすり泣きの声は少しずつおさまっていった。なかなか止まらない涙をシュラも手伝って拭いてやったが、最後にはアフロディーテは赤い瞼をしたままくすっと笑ってこんな事を言ったのだった。

アフロ「シュラ。君はデスマスクより少し重たいのだな」




 翌朝。
 シュラが眼を覚ますと、アフロディーテは彼の腕枕で平和そうに眠っていた。瞼が心持ち腫れているように見えるがそれは仕方が無い。他はいつものアフロディーテと変わりが無かった。
 起こすのも可哀想だし自然に目覚めるまで腕を貸しておいてやろうかと思ったその矢先、宮の入り口から鬼のような小宇宙が入ってきたのを感じた。思わず飛び起きる。
 枕を引っこ抜かれた衝撃で、アフロディーテもむにゃむにゃと眼を覚ました。

アフロ「シュラ・・・・?」
シュラ「迎えが来たぞ、アフロディーテ」

 言って彼は寝室から急いで出る。一つ布団で寝ているところなどを見られたらどんなこじれ具合になるかわかったものではない。
 それでも、居間に出てきた彼を待っていたのは十二分にこじれた顔のデスマスクだったのだが。
 シュラは努めて平静に「遅かったな」と言おうとし、その一瞬でひらめいて次のように言い換えた。

シュラ「遅かったぞ」

 デスマスクの双眸がみるみるうちに険しくなるのを悪趣味な興味で観察する。

デス「・・・・てめえ」
シュラ「やはり追い出す事は俺には無理だった。仕方ないのでアフロディーテと結婚して抱いて寝たが、お前に文句は無いだろう?好きにしろといったのはお前だものな」

 デスマスクは答えなかった。その眼は言葉の後半からシュラの後ろに注がれており、振り向くとよれよれの服のアフロディーテが頬を染めてぼうっと立っていた。
 シュラを無造作に押しのけて、デスマスクは真っ直ぐ彼の元まで行った。わざとらしいほど白けた眼で見下ろして。ポケットから切手だらけの結婚通知を出すと、それでぺし、と一つ彼の額を叩いた。

デス「・・・ご結婚おめでとうございます、と」
アフロ「・・・・・・・・・・・」
デス「そう言って貰いたかったからこんなもん寄越したんだよな?あ?」
アフロ「・・・・・・・・・・・」
デス「良かったな、優しそうなダンナサマでよ。末永く幸せに暮らしてください。これで満足だろ?」
アフロ「・・・・・・・・・・・・」
デス「じゃ、そういうことで、新婚夫婦の邪魔をしないうちに俺は帰るわ。未来永劫さようなら」

 アフロディーテの両目から涙が湯のように沸きだした。

アフロ「どうして君はそうなのだ!人がどんな気持ちで・・・・ちっともわかって無い!!」
デス「おーい、ご主人。奥さんが泣いてるぞ。なぐさめてやれや」
アフロ「デスマスク!デスマスクっ!嫌だ!行っては嫌だ!デスマスク!」

 泣きじゃくりながら、帰りかけているデスマスクの背中にかきついてしがみつく魚。
 わんわんと声を上げて泣く彼と、一向に振り向いてやる気配の無い男を眺めながら、シュラはいつ蟹を叩き潰してやろうかとタイミングをうかがっていた。
 ところが。
 そうして背中に子泣き爺のような魚を貼り付けて歩いていたデスマスクは、磨羯宮の入り口で突然体をねじり、あっという間にアフロディーテの肩をひっつかんで横の柱に押さえつけ、顔の形が変わるんじゃないかというほど濃厚なキスを小さな唇にねじ込んだ。
 泣き声がぴたりと止む。アフロディーテの腕が愛しそうにデスマスクを抱き返す。
 シュラは思わず眼をそらした。どう考えても見せつけている。

デス「おい、ご主人」

 派手な余興が終わり、キスの余韻に浸る魚を胸に引き寄せたデスマスクは、渋い顔をしているシュラを見て言った。

デス「この妻はご近所の独身男性と浮気発覚したぞ。慰謝料いらねえから離婚届にサインしろ」
シュラ「・・・・・そういう場合は俺が慰謝料もらえるのでは」
デス「いいからしろ」
シュラ「・・・・・わかった」

 馬鹿馬鹿しいと思いながら、シュラはそこらの紙に「離婚する」と書いて署名してやった。

シュラ「アフロディーテ。お前もこっちに来てサインしろ」
アフロ「う、うむ」

 ととと、と小走りにやってきてサインをするアフロディーテ。その耳にシュラはそっと囁く。

シュラ「おい。夫婦生活についてデスマスクに何か聞かれても秘密だと答えてやれ。絶対に教えるなよ」

 わかった、といった彼は、しかし正確な理由まではわからなかったに違いない。
 この時はまだ。
 シュラは自分でも意地の悪い事だと思いながら、ポーカーフェイスを保ったまま元妻を浮気相手に譲って磨羯宮から送り出したのであった。




 ・・・それから半時も経たないうちに。

デス「てめえ!!これ何だコラ!!」
アフロ「な、なに?」
デス「俺のやつじゃねえだろ!お前シュラとどこまでやりやがった!!」
アフロ「・・・ひ、秘密なのだ・・・」
デス「・・・・まさか本当に抱かれたんじゃねえだろうな。ふざけんなよ!!」
アフロ「!!」

 首筋のはっきりくっきりしたキスマークが見つかり、泥を吐くまでお仕置きされることになったアフロディーテだった。



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