長い石段を駆け上がり、たどり着いた巨蟹宮。その入り口で春麗は、聖域到着以来初めての躊躇を見せた。
春麗「やだ・・・男の人のお部屋って、ちょっと緊張しちゃうv」
カノン「すでに三件蹴散らしている分際で何だこのアマ」
春麗「デスマスクさんてこういうところにお住まいなんですね。ふふ、なんか意外!」
カノン「普通は住まんからな遺跡になんか。しかしこの地域の住民はみんなこんなところにお住まいだ。もう一度言っていいか、すでに三件蹴散らしている分際で何だこのアマ」
しかし春麗はまったく聞いていなかった。
カノンの袖を掴み、寄り添い、控えめに遠慮がちに後ろからついていくと見せかけて実は巧妙に男を押し出しながら己の意のままに進んでいるという女の裏技を用い、宮の中へ入る。
春麗「・・・暗いですね」
カノン「ここはいつでもそうだ」
春麗「男の人の一人暮らしってそうなりますよね。お仕事が忙しいとカーテン開けなくなるのよ」
カノン「・・・まあな。別に暇でもそうなる」
さらりとダメ人間性を垣間見せるカノン。
しかし春麗はやっぱり聞いていなかった。興味の無い男の話はどうでもいいのである自分の話だけ聞いてくれれば。
会話が途切れ、二人は進む。
ふと、カノンが踏み出した一歩をわずかに左にそらせた。男の上半身はそのぶれをまったく感じさせなかったので、春麗は気づかない。
彼女の小さな足は男が通るはずだった場所をまともに踏み、巨蟹宮の洗礼を受けることとなった。
ぐにゃり。
春麗「!い、今、何かを踏んだような気がしたわ」
カノン「フッ、怖い思いをしたくなければ、下は見んほうがよいぞ」
ざまあ的な空気をかもし出すカノン。台詞まわしだけなら格好いいが、その顔は小学生が嫌いな奴に犬のウンコ踏ませたときのあの感じである。
春麗「え、え!?なに!?」
カノン「知らない方が身のためだ。行くぞ・・・」
春麗「カノンさん、何なんですか、私なにを踏んでるんですか!?」
カノン「おい、掴むな。何って・・・」
春麗「どうして見てはいけないの?なぜ?見たらどうなるの?」
カノン「いや、別に何も・・・」
春麗「でもだめなんでしょう!?何かあるからでしょう!?どうして!?どうして何もないなんて嘘つくの!?」
カノン「嘘って・・・・」
春麗「怖い!やだ、私すごく怖くなってきたわ、どうしてだめなの!?見てはいけないの!?だめなの!?」
カノン「引っ張るなっ。そんなに見たければ勝手にし・・」
春麗「イヤーっ!私怖くて見られない!!」
カノン「・・・・じゃあ先へ進・・・・」
春麗「イヤーっ!私怖くて動けない!!」
カノン「・・・・・・・・・ならそこに居・・・」
春麗「イヤーっ!私そんなの絶対むり!!」
カノン「女うぜえーーーっ!!!!」
それは人類の半分を代表する絶叫であった。
カノン「俺にどうしろというのだ!!!!つうかなんなんだお前は!!くそっ、しがみつくなっ!!俺だって怖いわこんな宮!!」
ほとんど必死になって春麗をひきはがしにかかる。
自分で仕掛けたことではあるし、びびらせようとも思ったし、実際びびらせることもできたが、それでも要するに自分の負けだというこの理不尽。
支離滅裂な怯え方もうざいし、それに乗じていちいち『私』アピールするのもうざい。もう何もかもがうざい。それが女である。
カノンも人生の大事な時期を海底4000mに隔離されて過ごすようなことになっていなければもう少し気の利いたあしらいができたのかもしれない。だが彼は、言ってみれば13年間男子校で過ごしたようなものであった。女は人魚か女神しか知らない。
こんなはがそうとしてもはりついてはがれない、剥がし口を見失ったサランラップのような女など初めてであった。
カノン「サガ!!俺はもう嫌だ!!」
しかし兄貴もめんどくさくなったのか返事が無い。
カノン「くっそぉぉぉぉぉ!!!どいつもこいつも・・・いい加減にしろっ!!!!」
彼がその凶器のような腕を思いっきり振り払い、少女を床に突き飛ばしてしまったのは無理からぬことだったと言えよう。
どびたんっ、と派手な音をたてて春麗は10m先の暗がりに倒れ伏した。
起きようともがく背中に向けてカノンは被せかかるように怒鳴る。声で牽制するしかない気がしたのである。
カノン「目を開けて辺りをよく見ろ女!!貴様が踏んだのはデスマスクが殺した人間の怨嗟の念だ!!奴の非道によって現世の未練を断ち切れぬ、無尽の死者の怨念がこの宮に巣食っているのだ!!贖罪など終生賭しても間に合わんほどにな!!あいつがどれほどの遺恨を総身に負っているか、貴様のその目で確かめるがいい!!」
デスマスク、の一言で少女ははっと顔を上げていた。
細い体が凍りついたように見える。おそらく、死に顔のひとつを目の当たりにしたのだろう。
怒鳴るだけ怒鳴って肩で息をついたカノンは、こんどこそこの女も少しはおとなしくなるだろう、うまくいけば泣いてこの宮から逃げ出し、二度と蟹に会いたいなぞ抜かさなくなるかもしれない、とまで考えた。
しかし沈黙の後に春麗の言ったのはこうだった。
春麗「ごめんなさい、難しくてよくわからなかったわ。もう一回」
カノン「ふざけるなあああああっ!!!!」
春麗「だってそんな専門用語ばかり並べて怒鳴られたってわかりません!デスマスクさんが何?あの人、そんなに人を殺したことがあるんですか?」
カノン「そこから!?蟹はFBIも真っ青の大量連続殺人犯だ!貴様も老師のもとで暮らしていたなら13年前の事件ぐらい知っているだろう!!」
春麗「え、13年前?やだ、それなら私の生まれた年と一緒!何月ですか?私は四月なんですけど」
カノン「知らんわ!!!!何をはしゃいでるんだ貴様は合コンじゃねえぞ!!13年前に直接関与してない俺でもムカつくわ!!」
春麗「カノンさんって怒鳴ってばっかり・・・男の人でそういう余裕が無いのって、ごめんなさい、正直ちょっと引いちゃいます」
カノン「をををををを!!!!!!(怒)」
腹の底からわきあがる怒りはもはや言葉にできない。謝る気なんざサラサラないが自分の善良性を誇示するためだけに添えられた「ごめんなさい」がどこまでもムカつく。
だがここで切れて言い返そうものなら後日、「カノンさんってほんとすごい怒鳴るから、私もうとうとう、そういうのってちょっと、って言っちゃたのね。そしたらぁ!もうすっごい怒ってぇー!!」という山あり谷ありのジェットコースター暴露を行い、女子コロニー全体で共有する。女を一匹敵に回したら三十匹は敵に回ったと思わなければいけないのである。
カノンはそこまで女の生態を知っていたわけではなかったが、とにかくこっちが何かをすればますますストレスが溜まる反応が返ってくることだけはわかった。
焼けるような喉で全てを飲み殺す。
カノン「・・・・もういい。先に進むぞ」
春麗「え?あ、はい!・・・・きゃっ!こんなところに人の顔が!」
だからさっきっから説明してんだろうがこの小娘えええええええとは言わない。そのタイミングのズレが心底うぜえええええええとももう言わない。
カノン「人の顔?ああ、それはアレだ。行くぞ」
春麗「は、はい・・・」
戸惑いながらも立ち上がる春麗。ここまでまったく空気を読まずにいた彼女だったが、カノンがもう自分の相手をやめたことには敏感に気づいた。
アレって何かしらと思いつつも、聞いたところで冷たく無視されそうである。彼女は黙ってカノンに従った。怒鳴られるのはびびるだけだが、無視は本当に傷つくのであえて踏み込まない。そんな間合いの計り方も十分に心得ている。
早足に歩く男を安定しない小走りで追いかける。これまでになかった緊張のせいだろうか、暗闇から現れる死顔の数々も軽いステップでかわしていく。
カノンは一瞥もしない。
カノン「・・・・・・・・」
春麗「・・・・・・・・」
その、デート中に喧嘩をしてしまって一応男が女を家まで送るものの道中すげえ気まずいカップルのような空気には、いつの間にか死顔たちも視線をそらして沈黙していた。日ごろ途絶えたことのない恨みの言葉もまったく聞こえなくなっていた。実のところ、春麗が入り口の死顔を踏んだとき、死顔一同はやったぜ!的な、暇人の暗い楽しみに一瞬盛り上がった。
しかし今はもはや来訪者を驚かす余裕などない。目を閉じ口を閉じ、俺達は床ですといわんばかりの無表情でただ並ぶのみである。
春麗「・・・あの、カノンさん」
カノン「・・・・・・・・・・」
春麗「・・・・・・・・・あ、やっぱりいいです」
二人は入ってきたときと打って変わって、重たい静けさをまとわりつかせたまま、巨蟹宮を後にした。
一方その頃、紫龍。
双児宮で飛ばされた彼は異次元をさまよっていた。
体のダメージはさほどでもない。今までの人生経験から別に異次元でもあの世でもそのうち元に戻れると知っているので状況に対する恐怖も希薄だった。
ただ、心の深くに染み入るような痛みがある。
紫龍「春麗・・・」
まなざしの先に見えるのは、ここへ飛ばされる寸前に瞼に焼きついた顔。必死に自分に向かって腕を伸ばす少女の顔だった。
いつも優しく笑っていた頬を引きつらせて、よく涙にくれていた瞳を鋭いほどに見開いて、恐いくらい真剣になって叫んでいた表情を、紫龍は美しいと思った。
なぜ、あの時自分は彼女の手を掴まなかったのだろう。
そうしようと思えばできたはずだった。これまでいくつもの死地を乗り越えてきた自分なら。本気で小宇宙を燃やせば、こんなところまですっ飛ばされることもなく、春麗と二人で双児宮にとどまることができただろう。
だがあの時、紫龍は手を伸ばすのをためらった。
紫龍「・・・・・春麗」
見たくなかったのだ、と思う。
これ以上、彼女が他の男のために必死になる姿を見たくなかった。ましてやその男と再会し、面と向かって思いを告げる光景など、本当に見たくなかった。
そんな自分の気持ちを認めることが、はねかえってまた彼自身を傷つける。
春麗の幸せを願っていたはずなのに。
誰よりも彼女の幸せを願っていたはずなのに。
いつも五老峰に置き去りにしてきた。すがりついて泣くのを振り切って、魂切るような呼びかけに振り向くことさえしないで、そうしていつだって戦いに出かけた。彼女が待っていてくれるのを疑いもせずに。
今ようやく、当たり前だと思っていたことがどれだけの驕りだったのかを知る。
春麗に心のうちを告げられたとき、紫龍は彼女がデスマスクに恋をしたことも驚いたが、それ以上に彼女の口からギリシアに行くという決意が発せられたことの方に驚いた。春麗は五老峰にだけ咲く花だと、自分は勝手に思い込んでいた。
実際は彼女は一人の少女で・・・成長する少女で。新しい恋に夢中になり、それを追いかけるほどの強さも持っていた。
白羊宮で見せた抜け目の無さも、金牛宮で見せた卑怯さも、双児宮で見せた胆の据わり具合も、紫龍にとってはそれまで見たことのなかったものだ。だが確かに春麗の中にあったものなのだろう。そんなことも知らずに、彼女を待たせてきた。
赤裸々になった欠点に、紫龍は嫌悪を感じなかった。むしろそこに息づく少女の生命力のようなものに静かな感動すら覚えていた。
そして、その全てが自分ではない、デスマスクのために注ぎ込まれているということに、心がきつくねじられるかのような苦しさを覚えたのである。
辛い。
彼女の幸せを願っていたのにはこれまでの償いのつもりもあった事は否めない。だが本当に純粋に、彼女が幸せならそれは自分にとっても幸せなことなのだと、そう考えられるだろうと思っていた。だから彼女をギリシアに連れてきたのだ。
それなのに辛い。春麗がデスマスクのためにひたむきになる姿をこれ以上見ていられない。最後に見た鋭い瞳の表情がこんなにも愛しい。あれだけは自分に向けられたものだったから。
ここに至って紫龍はほとんど生まれて初めてといっていいほど利己的になりきれた。
春麗に愛されているのは自分でなければ嫌だ。
絶対に、絶対に嫌だ。
紫龍「俺は・・・・」
誰にも彼女を渡したくない。そう思った瞬間。
空間が弾けた。
ドシャアッ
紫龍「う・・・オ・・・オレは一体今までどこをさまよっていたのだ・・・なにかとてつもなくながい夢をみていたような気がするが・・・」
石畳に叩きつけられ起き上がった紫龍はここまでの長いモノローグの記憶を全て失っていた。異次元に飛ばされ甲斐のない、オーソドックスな聖闘士に戻ってしまっていたのである。全てが台無し。それが聖闘士。
彼はすばやく辺りを見回した。なにはともあれ現世に戻れたようである。
紫龍「しかし、あの異次元からときはなされたのはいいが、ここはどこだ?どうやら十二宮のひとつのようだが・・・」
カシャッ
背後で音がした。振り向く。
紫龍「な・・・なに!?」
そこで紫龍は思いもかけないものを目にした。
紫龍「お・・・おまえは、おまえは俺の恋敵・・・蟹座のデスマスク!!」
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