蟹の浮気が原因で山羊の新妻になった魚。
 誓いのキスが滞りながら済んだ後、アフロディーテが最初にした仕事は友人に宛てて結婚通知を書く事であった。

『前略、デスマスク様。私はこのたびシュラと結婚して幸せになりました。あなたが浮気するからこういうことになるのです。いい気味です。アフロディーテより』・・・これでよし!」

 このちっともめでたさの無い通知を綺麗な薔薇の封筒に入れ、夫の机を漁って見つけた切手30枚ほどをぺんぺんと貼り付けて、上に「大至急。むしろ超特急」と書くと、アフロディーテはいそいそとシュラのところへ持ってきた。

「シュラ。手紙といえば山羊さん。これを出してきて欲しい」
「こんな宛名も見えないほど切手貼った手紙をどこに出せと・・・」
「デスマスク宛てなのだ。巨蟹宮に置いてくれば良いのだから、宛名なんて見えなくても良かろう?」
「だったら切手もいらん!!無駄な事をするな!」
「使いもしない切手を机の中に溜めておく方が無駄なのだ」
「使わないわけではない。盆と正月には紫龍に手紙を・・・」
「駄目駄目。さ、早く持って行くのだ。すぐ目に付くところに置いてくるのだぞ」
「・・・・・・」

 新婚5分で尻に敷かれ始めている山羊は、大人しく手紙を片手に巨蟹宮へ向かった。
 中身は見ていなかったが、デスマスク宛にアフロディーテが書いたということで大体の想像はつく。これを読んだら受取人が荒れるだろうと思うと、厄介に思う反面小気味よくもあった。
 巨蟹宮のテーブルの上に手紙を置いた。
 それから少し考えて、ペンと紙を拝借すると、自分も一筆したためた。

「追い出せなかったのでもう一方の手段を予定している。手遅れにならんうちに迎えに来い」

 磨羯宮に帰ってくるとアフロディーテが待っていた。
 いや、ただ待っていただけでは無い。入り口にちょこんと座り、シュラの姿を見るとさっと三つ指をついたのである。

「おかえりまさいませ」
「・・・・どうしたお前」
「シュラの奥さんのイメージは一途で清純派で尽くすタイプという結論が出たのだ。私はそのイメージに沿うべく一直線に努力することにした」
「俺は別に普通のお前で十分だが・・・」
「いけない。お嫁に来たからにはその家のしきたりに合わせなければ姑にいじめられてしまう。味噌汁のダシのとり方から雑巾の絞り方にいたるまでイビリの対象なのだ。油断はできない」
「そ、そうか」
「ちなみにデスマスクの時は、夫が帰ってくるとおたまを片手に飛び出してきて「ごはんとお風呂どっちにする?」と聞く幼な妻風だった。料理はちょっと焦げすぎた方が可愛いぐらいの感じで、週末は裸エプロン・・・・」
「もう二度と奴のところへ戻るな。俺が一生面倒見てやるからまっとうに生きろ」

 自分でも目の据わったのがわかったシュラだった。




こうして純和風妻を目指し始めたアフロディーテだったが、 三つ指ついておかえりなさいませをした後はさしあたってすることも無いので暇を持て余すばかりだった。掃除をしようにも磨羯宮は無駄な物が無く良く整頓されていたし、晩御飯を作るには早い。
 幼な妻ならばこういうときは夫に甘えてあれ買ってこれ買ってとおねだりをしていれば良かったのだが、出来た妻はそんなことをしてはいけないのだった。

「シュラ。何かすることは無いだろうか。尽くすタイプの妻に任せたい仕事は」
「そう言われてもな・・・」
「床の雑巾がけをしようか?」
「俺はお前を家政婦にしたつもりは無いぞ。そんな事はせんでいい。どうせ宮の中は土足だ」
「なら・・・・そうだ、繕い物だ!」

 アフロディーテは思いついた。

「君は毎日真面目に修行をしているのだから、穴のあいた服の一つや二つあるに違いない。出すのだ」
「服?」
「私は双魚宮から裁縫道具を取ってくる。その間に探しておいてくれ」

 一方的に言いつけて瞬く間に上へ走って行く。
 シュラは困った。確かに自分は鍛錬を怠った事は無いが、子供じゃあるまいしそれで服に穴をあけたりすることは無い。
 考え込んだ後、自分の部屋へ行って服を一着選び、そしてできるだけ縫いやすそうな部分を軽く指で一閃してすっぱり裂くと、戻ってきたアフロディーテに渡したのだった。

「ほら。これを頼む」
「む。こんなに大きな穴を開けるとは、君は見かけによらずおっちょこちょいなのだな」

 そんな事を言いながら嬉しそうに床に座り込んで裁縫道具を広げるアフロディーテ。箱ばかりが綺麗に装飾された道具は新品そのもので、使われた形跡が見られない。外見で衝動買いしたまま放っておいた品だろう。
 シュラは長椅子に座って様子を見守る事にした。
 ・・・・容易に想像はできたが、アフロディーテは針に糸を通す段階で四苦八苦しはじめた。何度やっても上手く行かなかったようで、終いには半泣きになって糸を投げ捨てる。

「おかしい!この糸は針穴より大きい!!」
「・・・・貸してみろ」

 苦笑しながら立ち上がって、シュラは針と糸を受け取るとすぐに糸を通してやった。きちんと結び目も作る。

「お前、本当に縫い物などできるのか?」
「できる!針に糸が通ればこっちのものだ。ご苦労様。もう君の手出しは無用だ」

 だが、本格的に縫い出した彼は、シュラが長椅子に座りなおしたと同時にびくっ!と体を震わせた。間をおかずもう一度。そしてもう一度。
 シュラは溜息をついて聞く。

「指を刺したんだろう」
「・・・・・・・・。・・・・刺してない。幼な妻ならともかく、純和風妻は指を刺したりしないのだ!だから刺してない!」
「無理をするな」
「無理ではない!」

 しかし無理だった。それから立て続けに10回ほど痙攣した後、彼はとうとう針を投げ捨ててべそをかきながらシュラのところまで窮状をうったえにやってきた。

「シュラ、手が再起不能の大怪我だ・・・・・うう・・・・病院に連絡して救急車を・・・」
「大げさすぎるぞ。黄金聖闘士が縫い針刺したぐらいで泣くな」
「これは戦いのときの怪我と違う!一回刺すたびに『お前は不器用だ』太鼓判を刺されているようで体だけではなく心も痛い!」
「見せてみろ」

 シュラが手を引き寄せて見ると、人差し指の腹にぽつんと赤い点が出来ていた。他は刺した跡もわからない。
 アフロディーテはすんすんと鼻をすすり上げながら、

「その点が一番の流血の大惨事だ。もしかすると手遅れで切断しなければならないかも・・・・シュラ、やっぱり病院には行きたくない!怖い!」
「安心しろ。誰も連れて行こうと思っとらん。こんなものは放っておけば2秒で治るだろう。それよりお前が投げ捨てた針の方がよっぽど危険だ。ちゃんと拾って針刺しに戻せ」
「・・・・優しくない・・・・」

 針を拾って片付けたアフロディーテは、今度は部屋の隅に丸まって拗ね始めた。尽くすタイプの和風妻の面影は陽炎のごとく消え去り、完全ダメ幼な妻と化したようである。
 シュラは溜息をついた。

「・・・おい、何をやっている」
「拗ねているのだ。ちゃんと見てわかって欲しい」
「いや、ちゃんと見ないでもそんな事はわかるがな・・・・馬鹿なことをしとらんでこっちに来て大人しく座っていろ」
「ううっ・・・ひどい亭主関白っぷりなのだ。こういうときはデスマスクでさえ慰めてくれるのに・・・」
「あいつが?」
「そうだ。『鬱陶しいんだよてめえはよ!』と」
「・・・そういう慰め方でいいならいくらでもやってやる。アフロディーテ、鬱陶しいぞ
「ひどい・・・!」

 何が違ったのか声を殺して本格的に泣き出す妻。
 もて余したシュラは一瞬、デスマスクに連絡を取ってサポートを受けようかとも思ったが、なんとか思いなおして自分に出来る範囲の対処をすることに決めた。
 といっても、近づいて行って頭を撫でてやるぐらいのものなのだが。

「アフロディーテ。いい加減泣き止め」

 わしゃわしゃと大きな手で髪を掻き乱してやっても効果が無かった。
 シュラは段々やけくそになってきた。

「お前が泣いていると迷惑・・・・もとい、俺まで悲しくなってくる。色んな意味で。早く能天気・・・・じゃない、いつもの笑顔を取り戻してくれ。本当に俺を愛しているならできるだろう?」

 ・・・人間、やけくそになれば素面じゃ言えない台詞も素面で言える。
 最後の一言挑戦を聞いたアフロディーテははっと泣き止んですぐにシュラの首にかじりついた。

「シュラ!今までの君のクソ冷たい仕打ちは私の愛を試していたのか?それならそうと早く言って欲しい!可愛く試されてしまったではないか。シュラのばか!」
「・・・・・・。機嫌は直ったか?」
「直った!尽くし妻としてこんなところでめそめそしているわけにはいかない。愛する夫のために、今から耳かきをしてあげようと思う」
「それは勘弁してくれ。裁縫なら刺されるのはお前の指だが、耳掻きで刺されるのは俺の鼓膜だ。シャレにならん」
「失礼な・・・刺したりなんかしない!私はいつもデスマスクの耳かきをしてあげていたのだ!」

 ・・・・この時ばかりはシュラの心中も超絶不器用魚に耳を預けて掻かせる友人の度胸を讃えた。

「蟹は蟹、俺は俺だ。耳掻きを人にしてもらう必要は全く無い」
「そんな。君は新陳代謝が活発そうだから耳の中はゴミだらけのはずなのに」
「決めるな!」
「ちょっと見せてみるのだ。口ではいらないといっていても、君の耳は耳かきを必要としているかもしれない」
「おい、ひっぱるな!」

 しかしアフロディーテは聞かない。無理矢理シュラの耳朶をひっつかむと、顔を近づけてためつすがめつ穴の中を覗きこみ、時々口を尖らせふうと息を吹きかけて夫をびくつかせてはまた中を改めた。
 そしてがっかりした面持ちで手を離した。

「予想をくつがえす清潔さなのだ・・・・全然大物が取れそうに無い・・・・なんてつまらない耳・・・・」
「つまらなくて悪かったな。あきらめろ」
「うう・・・・・仕方ない。耳掻きはあきらめた。膝枕だけにする
「・・・ひざまくら?」

 顔を引きつらせてオウム返しに問い返したシュラは、何だか頬を染めて嬉しそうにしているアフロディーテを見て冷や汗が背中を流れるのを感じた。

「・・・おい」
「反論は受け付けない。膝枕は尽くし妻の王道必須試験なのだ。これをクリアしなければ先に進めない」
「進まんでいい!!むしろ戻れ!俺は別に眠くもなんともないぞ!」
「眠くなくてもそのうち君は眠くなる。催眠術と紙一重なのだ。さあ寝るのだ」

 ちょん、と正座をして待ち構えるアフロディーテ。相手が一秒ためらえば一秒分機嫌を損ねるわがままな枕である。
 
「聞くまでも無いだろうが・・・・・デスマスクともこれをやっていたのか?」
「いや。デスマスクは膝枕より抱き枕派だった。ひょっとして君もそう・・・・?」

 シュラは即行で膝枕の世話になった。
 アフロディーテはにこにこしながら短い黒い髪を指で撫でる。

「なかなか気持ちよいだろう?」
「・・・まあ、悪くは、無い」
「お客様、どこか痒いところはありませんか」
「・・・なんの店だこれは」
「シュラの髪はぼさぼさしているな。前から疑問だったのだが、そのいい加減な前髪はもしかして自分で切っているのだろうか」
「ほっとけ」

 アフロディーテの膝は暖かかった。慣れているならその温もりで心地よく眠りに入れそうだったが、シュラはちっとも慣れていなかったし、寝顔を上から見下ろされるという微妙なプレッシャーもあったのでイビキをかくどころではなかった。
 かわりにうとうとし始めたのは枕の方である。
 髪を撫でていた指がいつのまにか止まっていたのに気づき、シュラがそっと視線を上げると、アフロディーテはこっくりこっくり舟をこいでいるところであった。

シュラ「・・・・アフロディーテ。眠いなら寝室に行くか?」
アフロ「う・・・?いや、眠く無い。尽くし妻が尽くしてる最中に居眠りなどはありえないのだ。私は眠くなど・・・・・・・くー
シュラ「・・・・・・・・。馬鹿だな」

 シュラは苦笑して起き上がる。重石を失って横にぐらつくアフロディーテを支えて、

シュラ「しっかりしろ。眠いなら眠いと素直に言え」
アフロ「眠くない!・・・・ただ、デスマスクが浮気などするから昨日は喧嘩喧嘩で眠れなかったのだ。尽くし妻計画が上手く行かないのは全部蟹のせい・・・ううっ、シュラ、過去の男が私の人生に影を落とし過ぎる」
シュラ「泣くな。変な男に引っかかったお前が悪い」
アフロ「・・・冷たい・・・」
シュラ「歩けるか?」
アフロ「無理」
シュラ「そうか・・・・・・まあ、歩け。たかが眠いぐらいで弱音を吐くのもみっともないぞ」
アフロ「じゃあなぜ訊いたのだろう・・・。シュラ、私は一人で寝くさるわけにはいかない。妻としての義務が・・・・膝枕は駄目そうだが、抱き枕なら」
シュラ「いいから寝に行け一人で」

 寝室へと魚を追い立てる山羊。アフロディーテはふらふらしながら奥へ歩いていった。ニ、三度、柱に激突する音がしたが、やがて静かになる。
 シュラが少し時間を置いて見に行ってみると、一応無事にベッドまで辿り着けたようで、甲板に釣り上げられた海の幸のごとくどてんと寝こけていた。
 シュラは苦労して彼の下から上掛けを引き抜き、被せてやった。
 やれやれ。
 溜息をつき、部屋を出て行こうとした時。

アフロ「・・・・・・に」
シュラ「?」

 アフロディーテがむにゃむにゃ言ったので思わず足を止め、振り向いてしまった。
 上掛けから覗く少しばかり紅潮した顔。眉根が寄っている。
 
アフロ「・・・・に・・・・・るな・・・・・」
シュラ「・・・・・・」

 寝言はくぐもっていて何を言っているのかまったく聞き取れなかった。しかし、アフロディーテの苦悩している顔を見ればどんな夢を見ているのか想像がついた気がした。
 喧嘩で眠れなかった次は、眠った後に喧嘩をしているのか。
 
シュラ「まったく・・・・・あの馬鹿男」

 ここにいない友人は、夢でも現でもアフロディーテを苛めているらしい。軽い義憤を覚えたシュラは、目の前で苦しそうに震えている頭をそっと撫でてやった。
 とたんにアフロディーテが涙を流し始めた。

シュラ「な、なに・・・!?」

 うろたえるシュラ。
 自分のした事が夢の中にとんでもない形で具現化されたらしい。アフロディーテの寝顔はひどく悲しそうである。

シュラ「おい、何があった;」

 聞いても答えは無い。ただほとほとと涙が沸きだすばかりである。

シュラ「・・・・・・・・・泣くな」

 本日何度目かわからないほど頻発している言葉をここでも自信なさげに口走り、指先で目尻をぬぐってやる。
 するとアフロディーテはぴたりと泣き止んだ。

シュラ「・・・少しは良い夢になったか?」

 だが、顔はまだ悲しそうだった。夢の中の出来事とはいえ、シュラにはどうしてもこのままアフロディーテを放っていくことができず、薄暗い部屋の中でしばらく見守っていた。
 悲しい顔はそれでも変わらない。
 ためらいながら手を握ってやったが、まったく効果は無いようだ。
 デスマスクめ。一体何をした。
 眠りの中に入っていけないもどかしさにシュラは苛苛と舌打ちをし、こめかみを掻き、大体なんで俺が夢の事までアフロディーテの世話を焼かなきゃならんのだという根本的問題に直面してますます苛ついた。
 こんな所にいても仕方が無い。一人で寝かせておけばそのうち夢も良い方へ転がるだろう。
 シュラは握っていた手を放した。
 しかしそのとたんに心細そうになったアフロディーテの顔を見てまたしても見切りをつけられなくなった。

シュラ「・・・・・・・・いい加減にしろよ」

 不甲斐ない自分を叱咤し、そして散々迷う。
 迷うが・・・・・・・・仕方が無い。
 シュラは身を沈めてアフロディーテの頬に口づけた。彼に思いつく限り最後の手段がこれだったのだ。
 そして後をも見ずに部屋から撤退した。


 ・・・・シュラは後を見なかったので、その先の変化は知らなかった。
 夢の中で翻弄されていた魚がかすかに頬を染め、寄せていた眉を緩めたことを。
 そして口の端が本の少し、幸せそうに持ち上がった事を。
 静かな部屋の中に、深い寝息だけが規則正しいリズムを刻んでいた。



つづく



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