通常、聖域のどの宮も出入り口は前と後ろに一つずつ、つまり計二つある。だから、アフロディーテが前の入り口から駆け込んできた場合、すかさず後ろの出口から逃げる、という手段も有効である。 しかし、今度こそそれをやろうやろうと思いつつ、結局踏みとどまってしまうのが磨羯宮の住人なのであった。

「シュラっ!聞いてくれ!あの馬鹿っ・・・デスマスクっ・・・・・最低っ・・・!!」
「泣くな。なんだ?また浮気か?」
「そう!しかも普通の浮気ではない!飛行機だ!

・・・・・・・・・・

「・・・相手が?
「阿呆。そんなわけあるか!飛行機相手に浮気する奴がどこにいる!?」
「いや、お前が今『普通の浮気ではない』と言ったから・・・」
「そういう意味ではない!違うのだ!話聞け!」

あんまり聞きたくなかったが、それでも無理矢理聞かされた話はこうだった。

一昨日、アフロディーテは久しぶりにスウェーデンに里帰りでもしようと思い、デスマスクを誘って旅行に行った。向こうで二泊して今朝方帰りの飛行機に乗ったのだが、しばらくするとデスマスクがトイレにたったまま帰ってこなくなった。

「具合でも悪くなったのかと思って心配して様子見に行ったのだ。そしたら、後ろの方の個室で・・・スチュワーデス・・・」
「・・・皆まで言うな」
「最低だろう!?私と旅行してたのだぞ!?楽しかったのに、どうして帰り道でそんなことできるのだ!しかもあのスチュワーデス、全然美人じゃないし!私に比べれば路傍のジャリも同じだ!そんなのと浮気することないではないか!!そんなに女が抱きたいか!」
「お前を抱くよりは健全だと思うが・・・」
「そんなことない!」

 きっぱりはっきり言い切って、アフロディーテはわっとばかりに顔を両手に埋めた。困りきるシュラ。

「・・・で、どうしたいんだお前は」
「死にたい!」
「アテナの聖闘士が痴話げんかごときで死ぬな阿呆!ちょっと待っていろ。デスマスクを呼んで来るから」
「嫌だ!あいつの顔なんか見たくない!」
「本人同士で話し合わんと仕方ないだろうが」
「話し合う必要なんか無い!私は絶対に会わんっ!」
「少し頭を冷やしていろ!」

ほとんどひきつけを起こしそうなアフロディーテを後に残し、シュラは逃げるように磨羯宮から出ていった。


巨蟹宮の主の第一声。

「言っとくがあれは不可抗力だからな」

こちらの顔を見るなり仏頂面で言ってきた相手に、一瞬沈黙するシュラ。だが、すぐにもっと不機嫌そうな声で、

「まだ何も言っておらんが」
「どうせアフロディーテがお前に泣きついてぎゃあぎゃあ言ったんだろ。俺が浮気したとか何とか」
「していないのか?」
「いや、浮気はした」
「なら弁解の余地無しだろうが!!なに偉そうに構えてるんだ貴様は!!」
「俺ばっかり責めるんじゃねえ!仕方ねえだろうが!あいつが横で寝たせいだ!!不可抗力だ!」
「わけのわからんことを・・・」
「だから、あいつが隣で寝るんだよ。飛行機に乗ってる最中。しかもシート倒せばいいところを、何でだかわざわざ窮屈な格好して俺にもたれやがる」
「・・・・それがどうした?」
「・・・寝息がまともに耳にきてな」

苦虫を噛み潰した顔に無理やり自嘲の笑みを浮かべ、

「どんな能無しもムラムラっとくるだろうよ、あれは」
「・・・・。それでムラムラっときたお前はスチュワーデスと浮気したと・・・?」
「おう」
「阿呆かあああっ!!どうしてそういう結果になるんだ!どう考えてもお前が悪かろうが!!」
「じゃあ何か!?アフロディーテ本人を叩き起こして個室に連れ込めっつーのか!?」
「違うわ!!帰ってくるまで我慢しろと言ってるのだ!できるだろうそのくらい!!」
「いや、我慢は体に良くねえよ」
「・・・殺すぞ蟹・・・」

 どっと疲労感と殺意が溜まるシュラである。デスマスクはそれでも反省のそぶりすら見せない。

「そもそもホテルで朝の一回やらせなかったあいつが悪い。部屋が明るいと嫌がるんだよな。ったく」
「ったくじゃないだろう・・・お前のその無責任な行動のおかげで俺がどれだけ迷惑を被ってるか少しは考えろ」
「・・・必ずお前のところに行くよな。お前、あいつに甘すぎるんじゃねえの?」
「俺だって不本意だ!!好きで甘い顔してるわけではないわ!!」
「どうだか。案外アフロディーテに気があったりしてな。あいつ可愛いし」
「要するにノロケか・・・?あれが可愛いと思っているのはお前だけで、他の人間には超次元迷惑な電波にしか見えとらんことに気づけ。そしてその電波の発生原因が自分だということにも気づいて俺の部屋から発信装置を撤去しろ」

 デスマスクは鼻で笑った。

「邪魔なら自分で叩き出せよ」
「どうして俺が・・・・!」
「てめえの宮はてめえで守れ。黄金聖闘士だろ?」
「それとこれとは話が別だ!」
「何だかんだ言ってアフロディーテが可愛いんだろ。奪いたいんだろ。襲いたいんだろ。素直に吐きやがれ山羊の皮被った狼男が。あァ?」
「・・・。どうして俺はそんなにお前にいびられたりガン飛ばされたりせねばならんのだ・・・?勝手に邪推して勝手に腹立てて勝手に因縁つけてくるのをやめてくれんか。お前こそ素直にアフロディーテが好きで好きで仕方が無いと吐けばいいだろう」
「うるせえな。そりゃあまあ、俺はあいつが可愛いし将来のことも色々考えて・・・って知らねえよそんな事!!ふざけんなよこのクソ山羊!!自分で叩きだせねえからって俺を誘導尋問にかける気か!?汚ねえぞ!!」
「・・・お前、自分で何言ってるかわかってるか・・・?」
「黙れ!!俺は浮気してくる!!」
「なっ・・・!?待て!アフロディーテをどうする気だ!?」
「知るか!追い出すなり犯すなりてめえで勝手に始末つけやがれ!」
「おい!!」

 シュラはほとんど必死になってデスマスクを止めるべく掴みかかったが、耳の先まで茹った蟹はそれ以上に必死で友人の腹に蹴りを3発ほど連打すると無理矢理出かけてしまった。
 しばし腹を抱えてその場にうずくまるシュラ。あの野郎・・・と呻く声には若干の殺意が芽生えている。
 追い出すなり犯すなり勝手にしろだと?よく言えたものだ。
 眉の間に一触即発の剣呑さを浮かべて自宮への階段を登る間も、その殺意は用意には消えなかった。カツ、カツ、と硬い音を立てる足取りは重い。
 アフロディーテをつまみ出すことなど造作も無い。物理的には。しかしそれをやったらあの電波発信装置はわあわあとやかましく騒ぐだろうし、その上またデスマスクが逆切れして磨羯宮へ乗り込んでくるだろう。この厄介な同年の友人は、シュラがアフロディーテを甘やかしても面白くない顔をするが、それ以前に自分以外の人間がアフロディーテを邪険にすると本気で腹を立てた。
 勝手極まりない。しかしシュラとしても誰かがアフロディーテを苛めていると・・・・誰かと言ってもデスマスク以外だった試しが無いが・・・いい気分はしないもので、その点だけはデスマスクの気持ちがわからないでもないのだ。
 だから追い出す事はできない。
 と言って、犯すなどは論外である。
 追い出すなり犯すなり・・・・もっと他の選択肢は無かったのかとシュラは胸中で毒づいた。カツ、カツ、カツ、と階段を一段ずつ踏む自分の足を見おろしながら。
 カツ、カツ、カツ、カツ・・・・右、左、右、左、右、左・・・・・追い出す、犯す、追い出す、犯す、追い出す、犯す、・・・・・
 ・・・追い出す、犯す。磨羯宮到着。

「できるかああああっ!!!!」

 我に返って絶叫したシュラは無意識でとんでもない占いをしていた自分に深い自己嫌悪を覚えつつ、もうとにかくあの寄生魚は追っ払おうと固く心に誓ったのだった。




 磨羯宮に入ってすぐ、期待に満ちた眼差しのアフロディーテがすっ飛んできた。

「シュラ!デスマスクは?」
「お前の事が好きで好きで仕方ないから浮気をしに行った」
「・・・・・・・・・・・・・・」

 アフロディーテは押し黙った。
 肩がひくっ、と大きく震えた。

「泣くな!」
「だって・・・・・・・デスマスクがまた浮気・・・・・・」
「お前の事が好きだからだと言ってるだろう!」
「意味がわからん!!私の事が好きなら絶対絶対浮気はしないはずではないか!!その証拠にシュラは浮気してない!!」
「俺は別にお前のためでも何でもないわ!!」
「嘘だ!君は私が好きなのだ!そうでなければ私はもう一人ぼっちではないか!デスマスクの馬鹿!ううっ・・・・シュラ・・・・」

 よろよろと胸にかきついてくる魚を、シュラは思わず受け止めてしまった。寄生魚を追っ払う固い誓いは海の向こうへ飛んだようである。
 アフロディーテはくすんくすんとしゃくりあげながら、

「デスマスクは私の事など99円のサンマ以下にしか思って無い・・・・自分が蟹だからって・・・秋の味覚の王者だからって、あんまりだ・・・」
「落ち着け;」
「奴には始めから同じ鍋に入る気などなかったのだ。私は騙されていた。シュラ・・・一緒に死のう
「何で俺が!!おい、あんなヤドカリ一匹で人生を捨てるな。あいつが粗末にした分、俺がお前を大事にしてやる。一応許可もとってある。だから元気を出せ」
「シュラ・・・」

 顔を上げ、ほんのり頬を染めるアフロディーテ。不慮の事故で自分でも予期しなかった言葉を吐いたシュラは、その訴えるような眼に冷や汗を流した。
 アフロディーテはもう一度シュラに、今度はもっと強く抱きついた。

「わかった。私も覚悟を決めた。君のプロポーズを受けよう」
「待て!!何だ!?俺がいつお前に求婚した!!」
「今、『大事にしてやる』と言ったではないか。私には『結婚して下さい』に聞こえた」
「そんな登録しない限りありえない漢字変換を・・・・」
「君とならきっと幸せになれる。家事は分担しよう。突然変異してよければ料理は私がやる」
「いや、それは俺がやる。・・・というか、結局全部俺がやるハメになる。多分」
「誓いのキスをしてくれ、シュラ」
「なに!?」
「誓いのキスだ。ハワイで挙式したいなどとは言わないから」

 すっかりその気になっているらしいアフロディーテは上を向いて眼と口を閉じた。石のように固まるシュラ。
 5分もの時が何もなく過ぎた。
 アフロディーテはかなり辛抱強くじっとしていたものの、さすがに待ちきれなくなって眼を開けた。

「・・・どうしたのだ」
「どうしたも何も;」
「君もデスマスクと同じなのか?家庭という責任が怖いのだな。ううっ・・・・なぜ私に言い寄ってくる男は甲斐性なしばかりなのだろう」
「いつ俺が言い寄った、いつ」
「私はただ安らかな生活を送りたいだけなのに・・・・幸せがこの指をすりぬけていく
「それは9割がた俺の台詞だと思うが・・・・」
「シュラのばか」

 と言ったアフロディーテの言葉は、先ほどの「デスマスクの馬鹿!」に比べるとまったくと言っていいほど元気が無かった。友人(現在婚約者設定)を見上げるその瞳に再び涙が沸きあがる。白い肌の下で、つきはなされた悲しさがとくんとくんと波打っているようだった。
 だが、それを見たシュラはいきなり彼の頬を両手で挟むと、実に素早くついばむように軽くキスをした。
 そして溜息を一つつき、

「・・・これで満足か?」

と聞いた。
 アフロディーテの涙が引っ込んだ。

「シュラ・・・・」
「一々泣くな。誓いのキスとやらは今のでいいんだな?」
「・・・・・。うむ」

 彼はこくんと頷いた。片手で眼をごしごしとこすった。
 それからその手をの背中に回すと、力いっぱい抱きついて暖かい胸に頬をこすりつけたのだった。
 

つづく



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