カシオスは9歳で聖域にやってきた。フードを深くかぶって顔を隠した男が――男の正体は結局最後までわからぬままだったが――カシオスと、そして同時に聖域に入ることになった日本人の子供とを並べて、訊いた。
「お前達。恐い女と恐ろしい女、どっちがいい?」
・・・・・・
「両方やだよ!」
グッジョブ日本人。カシオスはこの時、自分より二回りも小柄な少年を少しだけ尊敬した。
「なんでどっちかしかないんだよ!恐くない人がいいに決まってるだろ!」
「恐くない方、か。なら星矢、お前は恐ろしい女な。カシオス、お前が恐い女だ」
「そういう意味じゃねえよ!!!!」
「他に空いているのは兄貴だけだぞ。まだしも女についた方が良いだろう。それとも何か?お前は獅子座のガチムチに飼われたいのか?」
星矢は沈黙した。
案内するぞ、と男が言って、二人はギリシアの荒れ果てた神話の中へ連れ出された。空気が乾いて、風がとても冷たかった。
星空だけが、降るように美しかったのを覚えている。
翌日から修行だった。カシオスの師匠となったシャイナはなるほど確かに見た目からして恐い女であったが、聖域はそんなことに畏怖していては生きていけない場所だった。恐ろしい女に引き取られた星矢の消息も途絶えた。
罵声と苦鳴。破壊と人を打ち据える音。昼も夜も、不毛の土地でそれらの音は絶えることがない。
いくらも経たず、カシオスの丸みのあった頬は切り削いだ石のようにこけた。過酷な修行が少年の体を歪に変えた。目がくぼみ、肩は張り出し、筋肉の一つ一つが膨れて、破れては癒えを繰り返す皮膚は莚のように硬くなった。
カシオスはそれでも逃げ出そうと思ったことがない。そんな知恵も、帰る場所も、この少年には無かった。
「お前、どこから来たんだい?」
シャイナがふと思い出したように訊いた頃には彼が聖域に来てから2年も経っていて、鈍い頭の中にそんな昔の記憶は残っていなかった。
顔も体もどこの国の者とも知れない様子に変わっていた。子供とすらもわからないほどに。
だから、「お前はきっとギリシア人だよ」と、シャイナが続けて言った言葉がそのままカシオスの過去になった。
今から思えば、それはこの恐い師匠なりの優しさだったのかもしれない。
ギリシアの伝説は、英雄達の歴史だ。
その血を自分も引いている。
「天馬の聖衣、俺に取れるでしょうか」
芽生えた誇りが嬉しくて、ついそんなことを言った。
シャイナはフンと顔を背けた。
「お前次第さ。・・・・取れるんじゃないかい。生きてりゃね」
生きてりゃね。
それが真理なのだ。聖域の外れの墓地には、名も無く死んだ者たちの標が今日も新たに積み上げられている。
満点に渦巻く銀河の輝きに比べて、省みられることもない石の群れはひどく哀れでみすぼらしかった。
ああはなるまい。自分は星に名を連ねるのだ。
カシオスは夢を見た。
「そろそろ実戦をやらせてみたらどうだ?」
カシオスが来てから3年目の春に、ふいに訪れたアイオリアが言った。
「いつまでもお前に転がされていては自信のつきようもなかろう」
「まだ早いよ。私に転がされてるうちは実戦なんか」
「厳しいことを言うな。お前と互角に張り合えたら、それは白銀聖闘士相当の腕だ。試合なくしてそこまで行けるはずもないさ」
案内人にガチムチと評されたアイオリアであったが、実際に会ってみればそこまで言うほどのむさ苦しさは無かった。
肥大しすぎてそろそろ「成長期」で通せなくなってきているカシオスと比べれば、むしろ小柄にすら思えるほどだ。
だが、美しかった。
強い鼻筋と濃い眉が不思議にその大らかな性格に合っていて、立ち姿も金褐色の髪も、ごく無造作にしているのに人の目をひきつけるところがあった。ギリシア人の美徳をそのままあらわにしている男。まるで神話の中から抜け出してきたかのような。
それが、獅子座の聖闘士なのだ。
「手ごろな相手がいるのかい?こいつのレベルに合わせてやれるような?」
「魔鈴のところに星矢がいる」
星矢。随分久しぶりに聞いた名だ。生きていたのか恐ろしい女の下で。
カシオスは懐かしさをいくらか顔に出してしまったらしい。
「お前も会いたそうだな」と、アイオリアが笑った。
「ちょっと。馴れ合いになるならごめんだよ」
「心配ない。天馬の聖衣はどのみち一つしかないんだ。星矢はなんとしてもあれが欲しいらしいからな。カシオス、お前もそうだろう?星矢に勝てなければ、お前の修行も無駄になるぞ」
意味を理解するのに少しかかった。
シャイナが呆れて言った。わかってなかったのかい、お前は本当にバカだね。
星矢はお前のライバルなんだよ。
・・・そうだったのか。
「シャイナさん、やらせてください。俺、星矢を倒します。必ず勝ちます」
聖衣が欲しかった。英雄の一人に、自分もなりたかった。
頼もしく頷くアイオリアのように、肩をすくめるシャイナのように、自分もこの人たちの仲間に入りたかった。
アイオリアが何気なく言った。
「お前もギリシアの生まれだそうだな。俺としては、同郷の後輩が聖衣を守ってくれたら嬉しいが」
それがカシオスの心にどれほど火をつけたか知れない。
星矢との試合はさして間もおかずに実現した。
再会の場で、カシオスはほとんど呆然と相手を眺めてしまった。星矢は何も変わっていなかった。年相応にいくらか体が大きくなっていただけで、初めて会った時と同じ、ひよわな子供のなりだった。
この3年一体何をしていたのか。恐ろしい女とは何だったのか。
聖衣が欲しい?世迷いごとを。
「アイオリア、あんたちゃんと届けは出しといてくれたんだろうね。練習試合とはいえ届けがなきゃ私闘とみなされて粛清されるよ。教皇は恐いんだ」
「・・・・。大丈夫だろう。こいつらはまだ聖闘士ではないし」
「出してないのかい!?」
「私がやっといたよ。アイオリアがその辺気が利くわけないだろ。どうでもいい。始めるよ」
冷たく仕切る魔鈴は、仮面だけ見ればシャイナよりも恐くは無かった。だが今の一連の流れによってアイオリアの顔を引きつらせたのは確かで、なるほど実は評判どおりの恐ろしい女なのかもしれなかった。
対峙した星矢はこちらを見上げて言った。
「お前でかくなったなあ」
「・・・・お前は小さいままだな」
「へっ、勝敗は体のでかさで決まるもんじゃないさ。いくぞカシオス!でやああああっ!!」
星矢の拳はカシオスの腹にあたった。ぺしっ、と砂場をなぐりでもしたような乾いた音がした。
カシオスは星矢を見下ろしていた。自分が急に途方も無く大きくなったような気がした。
「くそっ、なんだ、お前全然効かないじゃんか!」
ぺしっ、ぺしっ。
痛くない。殴られても殴られても何も感じない。星矢はやはり貧弱な子供だ、あまりに弱い。
・・・・弱い?
「シ、シシ」
固く締まった腹の底からこみあげてくる感情があった。カシオスの瞳孔は真昼の蛇のように収縮した。
星矢が弱いのではない。
この俺が強いのだ。
「フシ、シュシシシ」
喉をかけあがって歯の間に洩れる息は、彼の興奮そのものだった。
両腕を伸ばして相手をつかみ、痛いとわめく小さな体を力を込めて投げ捨てると、それは目を疑うほど遠くにすっ飛んで動かなくなった。
アイオリアが狼狽したように振り返る。魔鈴が足の先で星矢をこづく。
死んだのかい、とシャイナが尋ね、彼女は答えた。いいや気を失ってるだけさ。
「だが勝負はあったな。カシオスの勝ちだ」
「勝負もなにもあったもんじゃないよ、なんだいそいつの情けないザマは。魔鈴、あんた真面目にやってんのかい。育てる気がないんならガキはアイオリアに引き取ってもらいな」
「・・・悪いけどそのつもりはないね。こいつは私が育てるさ」
「意地はってんじゃないよ。半端なことしたらガキが不幸に死ぬだけだろ。立場考えな、アイオリアなら左遷されてるとはいえ黄金聖闘士、私らとは年収が違うんだ。そのガキは金かけなきゃものにならないよ」
「黙りな、あんたに何言われようと今更アイオリアを頼る気は無い」
「・・・おい、いい加減にしろ。子連れ離婚された旦那か俺は。女同士で勝手に話を進めるな、今日は所詮手合わせに過ぎん。聖衣の行方を決める正式な試合にはまだ大分時間があるだろう。その間に魔鈴、君がどこまで星矢を育てられるかだ」
「何であんたが上から目線?」
「・・・そんなつもりはない。それからシャイナ、君もだ。カシオスがこのままでいいとは思うまい」
「だから試合は早いっつっただろふざけるんじゃないよ」
「それについては詫びる。俺は・・・どうも早まったようだな」
アイオリアが厳しい視線をこちらに向けるのを、カシオスは気づかなかった。
手のひらに感じた獲物のあがきを反芻し、歪んだ笑みを拭い去ることもしないまま、少年は一人、力の余韻に浸っていた。
星矢とはそれからも何度かやりあう機会が与えられたが、結果はいつも同じで特に振り返ることはない。いつまでたっても彼は弱かった。
一方で、生まれて初めて自信というものを得たカシオスは、とどまるところを知らずに強くなっていった。目に入る者を片端から相手取り、手合わせを挑んでは力任せに潰していった。
「カシオス。そいつはもう死んでるよ」
ある時はシャイナに言われて初めて、掴んだ相手が動かなくなっていたことに気づいた。
そうか、死んだのか。今までに無かったことだ。
「お前が殺したんだよ、わかってんのかい」
殺した。
・・・よくわからない。聖域で死ぬ人間はいつだっていたし、この男も死んだだけではないのか。打ち捨てられた躯は誰かが始末をするだろう。そうして墓は増えていく。いままでずっとそうだった。
そんなことより、さあ次だ。
「・・・お前、もう他の奴らとの手合わせはするんじゃない。あたしが相手をしてやるよ」
シャイナの声はいくらか尖っていた。
夜になってカシオスは、痣と傷にまみれた自分の体を見る。打ち込まれた腹が痛くて何度か吐いた。今日のシャイナは正に恐い女そのものだった。何か気にでも障ったろうか。わからない。
だがこの傷の一つ一つがまた自分を強くするのだと、そう思えば、口元に浮かぶのは苦鳴ではなく微笑だった。カシオスはうずくまりながら笑った。
いずれ天馬座の聖衣を手に入れて、星の神話に並んだら、こんなに歪になった自分でもきっと相応しく変わるだろう。美しくなれるだろうか。尊敬もされるだろうか。人に好かれもするだろうか。アイオリアのように・・・シャイナのように。
月日は少年の風貌をさらに変えていった。だが心の内に抱え続ける夢には一刺しの傷も無かった。
3年が経ち、女神の名の下に聖衣の継承を決める試合が開かれるまでは。
闘って、殺して、九つの死体を積み上げ、その最後に耳を落とされて自分の体を砕かれるまでは。
カシオスはずっと、夢が叶うと信じていた。
幕切れはあっけないものだった。
耐え難い痛みで目を覚ませば、たった独り、石の寝台に寝かされていた。
左目が開かず、夢中で顔に手をやって、それが分厚く巻いた包帯のせいだとわかった。カシオスはもがいた。
聖衣はどこだ?天馬座の聖衣はどこにある?
今日手に入れるはずだったのだ。それだけのために生きてきたのだ。
聖衣はどこだ。どこだ。どこだ。
混乱はそのまま凄絶な呻きになって口からこぼれた。
「カシオス!」
外から、シャイナが飛んできた。
「痛むのかい。動くんじゃないよ。本当に馬鹿だねお前は」
カシオスは自由がきく方の目を茫然と見張った。シャイナは仮面をつけていなかった。
平素の荒々しい態度からは想像もできないほどの柔らかい頬に、何があったのか、べっとりと血を拭った跡が張りついている。
視線に気づくと彼女は怒気をはらんで言った。見るんじゃない。
カシオスは慌てて顔を背け、頭蓋を走った激痛にまた呻いた。それでも聞かずにいられなかった。
「・・・シャイナさん、聖衣は」
「・・・・・・・・・・・」
「俺の、聖衣は」
シャイナは言葉を探しているようだった。
が、それが見つかる前にまた一人、部屋に飛び込んで来た者があった。
「シャイナ!君は一体、何をした!?」
顰めながらも凄まじい剣幕を頭の後ろで聞いた。
アイオリアだ。
「雑兵どもに知れ渡っているぞ。君は・・・・!」
「知らないよ。放せ、近づくんじゃないよ!」
「仮面が無いからか?どこで無くした?どこでその怪我を負った!?」
「見るな!いくらあんたでもただじゃおかない、私の顔を見た奴は・・・・!」
「俺は簡単に殺せる男ではないぞ。覚悟はあるのか」
「っ・・・・!!」
歯ぎしりが聞こえるようだった。
もみあう気配がして、声が遠ざかる。アイオリアがシャイナを引きずり戸口に場所を変えたようだ。
「・・・・正式の勝負で聖衣の行方は決まった。覆せるわけがない。君のしたことは完全な違反だ」
「・・・・・・・・・・」
「二度とするな。いいか?二度とするな!」
「・・・・くせに」
「なに?」
「あんたがあいつをたきつけたくせに!」
「!」
「裏切り者!あんたは魔鈴の味方だったんだろ!最初から星矢に聖衣をやりたかったんだ!」
「・・・・・」
「誰にだってわかるじゃないか、あいつに闘士の素質なんかないんだ!何言ったって半分もわからない・・・小宇宙の欠片も感じやしない!聖衣なんか取れるわけないだろ!あんたがあいつに言ったんだ、ギリシアの後輩が取ったら嬉しいって。星矢と試合をさせたのもあんただ。全部あんたが・・・!」
「シャイナ」
「そのくせ土壇場であんたは星矢の側についた!」
「シャイナ!」
ダン!!
音と、沈黙。カシオスは動けなかった。
一体何が起こっているのか、シャイナが何をしたというのか、まったくわからなかった。
「・・・・俺はどちらの側についた覚えもない。心にも無い世辞を言う男と見られているなら心外だ」
「・・・・・・・・・・・」
「素質の有無など誰にわかる。俺の兄は黄金聖闘士だった。それがあのザマだ。俺自身にも素質なんぞないのかも知れん。君は言い切れるのか、自分にはそれがあると」
「・・・・・・・・・・・」
「端からあきらめていたなら負けるのが道理だ。だがシャイナ、負けたのならせめて見苦しい真似はするな。君だけではない、カシオスの命に関わる。今は君がいなくなっただけでその男は生きる場を失うぞ。見捨てる気か。君の弟子だぞ」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・少し頭を冷やせ。雑兵どもは、俺が黙らせておく」
気配が一つ、去って行った。
全て顰めた、低い低い声の会話だった。何をはばかっていたのか、カシオスにはわからない。言葉はほとんど聞こえず、時折きしむような呼吸の音が痛む耳を打つだけだった。
ただ。
「・・・カシオス」
戻ってきたシャイナの声は疲れ切っていて。
「悪かったね・・・・あんたに、聖衣を取らせてやれなかった」
それで、ようやく、カシオスはわかったのだ。
自分は負けた。聖衣は二度と手に入らない。
じっとりと湿った傷よりも激しく、夢の崩れる痛みが彼を押し潰した。
失った耳は元には戻らなかった。
傷のせいか、虚ろのせいか、カシオスは熱を出して幾夜も眠れぬまま呻き続けた。
何を口走ったかは覚えていないし、どうしてそれを治せたのかもわからない。ただシャイナがずっと傍にいて、熱に乾く口に水を差すことと、額を冷やす布を取り換えることを、代わる代わる繰り返していたのはわかった。それはカシオスが人生のなかで初めて触れることのできた無償の優しさだったから、忘れることなどできなかった。
回復して再び日の下に出た時、聖域はひどくよそよそしくなっていた。
声をかけられる者が、いない。こちらが近づけば、まるで磁石の逆を向けたように離れていく。誰もカシオスを振り返らなかった。そのくせ彼の肌の上を、何か暗く鋭い好奇のようなものが絶え間なく撫でているのだった。
カシオスは次第に背を丸めて歩くようになった。顎を突き出しのろのろと、どこか居られる場所を探して一日中徘徊する。そうしながら彼は地面ばかりを見ていた。黒く落ちた自分の影が土にまみれて薄れていくのをただずっと見ていた。引きずって擦り切れて影が消えて、ようやく一日が終わると、彼は帰ることができた。シャイナの待つ、家へ。
・・・待つ?
彼女は何も言わなかった。おかえりとも言わない代わり出て行けとも言わず、いつのまにか顔には仮面が戻っていて、心の内に何を考えているのか察することは不可能だった。きっと待ってはいなかったろう。それでも、帰ることはできた。
ある日のこと。
「あの女も気の毒にな」
いつものように歩き回っていたカシオスは、岩陰からそんなことを言う声を聞いた。
そこは聖域のごく端の方の暗がりだった。昼のカシオスは見えない拒絶に押され押されて、いつの間にかそんなところまで押し出されていたのだった。
声は、溶けた膠を口に押し込みでもしたかのような、ひどくねばついた気持ちの悪いものだった。
「まったくだ。あんなクズをいつまでも飼わなきゃならないなんてな」
「どうしてあいつはぶっ殺されてくれなかったかなあ。死んでりゃ邪魔にもならなかったのによ」
「気持ち悪いしうっとうしいし、毎日毎日うろうろウロウロなあ。俺は前からあいつ嫌いだったんだよ」
「そんなん誰だってそうだろ。シャイナも、殺せばいいのになぁあんなやつ。弟子っつったってもうゴミ同然だろ、置いといてもなんの役にも立たねえだろ」
「いやあ、そりゃどうだかわからんぜ?あれだけでかい図体してるんだ、あっちの方もでかいんじゃねえか?毎晩ぶち込まれてよがってんだぜきっと」
「ぎゃはは、何の弟子だよ」
・・・・それからしばらくの時間を、カシオスは覚えていない。
おそらく、殴ったのだろう。地面に叩きつけもしただろう。足をへし折りもしたろうし、腕をねじりあげもしたようだ。死体はそういう様だった。
首も四肢もむしられて、元の色を忘れるほど赤かった。
誰かが、血の上で暴れているカシオスを見つけて、報せに走った。
「カシオス!!」
一発殴られたところからの記憶ははっきりしている。
「何をしているんだお前は!正気か!?」
殴ったのはアイオリアだった。血まみれの腕をきつく掴んでいるのも彼の手だった。それ以外の者は、あの暗い好奇を無遠慮に投げつけながら、ただ遠巻きに眺めていた。
カシオスは何か言おうとした。だが。
「どきな!どきなっつってんだろ!」
声を絞ろうとしたまさにその時、人の輪をかきわけるシャイナの叫びが聞こえた。
それは怒りと焦りとがないまぜになった高い声で、カシオスの喉にばらばらの破片をどっと積らせ、一切の言葉を封じた。
彼は一度だけ見た真っ白な頬を思い出した。熱の額に触れる冷たい細い指も思い出した。部屋を包むあたたかさ、帰る場所があるということ、「カシオス、お前はきっとギリシア人だよ」、神話の人、星に並ぶ憧れ、悪かったねといったほとんど聞こえないほどの泣声、そういったものを全て思い出した。そうして思った。
言うものか。ただの一言も、あの人を汚すものか。
「・・・・・・・カシオス」
アイオリアが待っても、無駄だった。彼は歯を食いしばって何も答えなかった。
「何やってんだいカシオス!お前一体・・・!!」
「シャイナ。いい。俺が話す」
近くまでたどり着いた彼女を、何を思ったかアイオリアが制した。抗議の気配を一瞥して黙らせ、カシオスに向き直ってその腕を放す。
「・・・行くぞ。その辺を片づけろ」
「・・・・・?」
「お前が殺したのだろう。死体を集めて俺についてこい。墓を作る」
水を打ったような静けさの中で、男は足元の欠片をひとつ拾い上げた。
生乾きの血がべったりと自分の指を汚すのを、気にするそぶりすら見せなかった。
聖域の外れにある、光の差さない石の群れ。
その墓地の中でアイオリアが穴を掘る光景は、とても奇妙な夢のようにカシオスには思えた。
ぼんやりしていると男は言った。おい、俺に全部やらせる気か。
カシオスは慌てて道具を取った。
死体を入れて、土を被せて。墓標代わりに、磨かれていない石を置く。
聖域の墓は簡単だった。一握りの者だけがもう一つだけ手間をかけて、その名を刻んでもらうことができた。
「・・・・・・少しは弔いの気持ちを持てよ」
と、土をかけながらアイオリアは言った。
「こいつらが下衆だったろうという察しはつく。だが、殺していい理由にはならん。俺たちが闘って良いのは敵だけだ。下衆をいちいち敵に回していてはきりがないぞ」
彼は出来た墓に黙祷まで捧げたが、カシオスは到底それをする気にはなれなかった。目を見開いたままじっと膝をついていただけで、アイオリアもことさらに咎めはしなかった。
立ち上がったあと、ふと、彼は言った。
「墓があるのは良いな」
汚れたままの手で首筋を掻いている。
「俺の兄は反逆者でな。聖域から逃げて死んだせいで、死体も無ければ墓もない。・・・どこで死んだのかもよくわからんしな」
驚いた。天の星から降りたような英雄さながらのこの男に、そんな身内がいたなんて。6年この方、考えてみた事もなかった。
アイオリアはちらりとカシオスを見上げ、苦笑した。
「その顔なら、誰かに聞いたことも無かったようだな。珍しい奴だ。下衆でも友人は作った方が良いぞ、カシオス」
今更そんなことを言われてもどうなるものでもない。
「俺の覚えている限り兄は人望も力も兼ね備えた人だった。まあ、子供の俺にはそう見えた。多少は厳しいところもあったが・・・いや真面目に思い返すと多少どころではないが・・・尊敬していたし、慕ってもいた。あの人が聖域にいる間はお前も兄のようになれみたいなことしか言われなかったと記憶している。・・・だが結局、人間は死に際が大事だということだ。どうして死ぬかも、どうして死なせるかもな。わかるか?カシオス。こいつらも死ぬのが今でなく、もう少し先まで生きていれば、あるいはもっとマシな人間として死んだかもしれん。だがお前に下衆のまま殺された。そういう殺され方をするとな、こいつらの一生は全て下衆だったことになる。どうしても、そうなるのだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「誰だって、死ぬなら大切なもののために死にたいと思うだろう。お前はまだ生きている。これからどんな死に方もできる。少しはこいつらを哀れだと思えないか。弔ってやれ」
カシオスは墓石を見た。ごつごつした、おざなりの、何の思いもかけられない、石。その下にあの男たちの体が埋まっている。眠っていると形容することもできない、無残な欠片になって。
シャイナを貶める声が破れた耳に今も残っている。その声とアイオリアの言葉が頭の中でぐるぐると追いかけ合って、止まらない。
「・・・・・・駄目か」
アイオリアがため息をつくのがわかった。戻るぞ、と言って踵を返したとき、夕暮れの風がひゅうと吹いて、彼の首筋の髪を少しばかり揺らせた。
乾いた土がついている。
「・・・・・・・・・・・・」
本当なら、彼はこんな寂しい墓地などに来る人ではなかった。
星から降りたそのままの姿で、聖域の熱い風をまとわせて、美しい憧れの中にいるべき人だった。
死体を拾い集め、地べたを掘り、土に手を汚す。そんなことを、させたのは自分だ。
シャイナはどうしているだろう。負けて無様に生きる弟子のせいで、人に蔑まわれている彼女は。そんなことに、させたのも自分だ。
アイオリアは死者を哀れに思えという。だができない。それができるほどの心を、最初から自分は持っていない。どうしようもなく醜い体は結局心の醜さなのだ。どんなにどんなに望んでも、星に並ぶことなどできはしなかったのだ。
アイオリアの首を汚す土こそが自分だ。ああして陰気にはりついて、触れる者を汚すのだ。
「・・・・・・・・・・・・」
唐突に、声をあげて泣き出したカシオスを、アイオリアは驚いて振り返った。
カシオス、と呟く声音から、彼がその涙をまったく違うものとして受け止めていることがわかった。
そうではないと、どうして言えよう。カシオスはただ、泣き続けるより仕方無かった。
それきり家に戻らず墓場にいついた弟子を、シャイナは始め、やみくもに怒鳴った。
「何考えてるんだい!!ふざけるんじゃないよ、帰ってきな!!」
カシオスは帰らないとだけ答えた。他に何も訴えるつもりはなかったが、アイオリアに何か言われたせいかいという濡れ衣だけは否定しておいた。
墓地には二日か三日に一度の割合で、死体が運ばれてくる。カシオスは穴を掘ってそれを埋める。
誰かが、あいつは心を入れ替えたと言ったらしい。随分な勘違いだと思った。死者を弔う気持など、相変わらずこの膨れた体の内には湧いていない。
カシオスはただ、自分にふさわしい場所を見つけただけだった。
彼にとって重要なのは死者ではなく、土の方だった。聖域の暗がりの、誰もが近づきたがらない場所で、独りで穴を掘って薄汚れていく。・・・似合いの仕事ではないか。墓地には赤茶けた小さい、気味の悪い花がびっしり咲いていて、それは死者への慰みよりも、あきらかに肥えた土を目当てにしてそこにいた。
時が経った。
ある日、シャイナがまた、墓地を訪れた。
彼女は聖衣をまとっていた。髪に優美な弧を描くマスクを差し、肩を、胸を、瞬くような白銀の光で覆っていた。カシオスは茫然と見とれた。
「私はしばらく留守にするよ。カシオス、お前その気になったら家に戻って番をしてな」
「・・・・どこへ行くんですか」
「日本だよ。覚えているだろう、あの魔鈴のところのガキ。星矢さ。あれが届出さずに格闘ショーに出たんだよ。届けとかそういう次元じゃないね、城戸沙織とかいう金持ちの小娘が青銅聖闘士かき集めて格闘大会開いてるってんだから。・・・ったく、だから聖衣はR15+指定にしろって私は前から言ってるんだ。ガキに持たせたらロクなことになりゃしないんだよ」
憤懣やるかたないという口調でシャイナは愚痴った。
カシオスは黙って聞いていた。心のうちの驚愕を押し隠して。
「星矢は魔鈴が責任とってぶっ殺すんだけどね。私はその格闘会場のなんとかコロッセオを破壊してこいって言われてね。白銀聖闘士なんてこんなもんさ、使いっ走りの便利屋だよ。ようやく後輩できてラクできると思ったのに、その後輩どもにやられてんだよ。腹立つね本当に」
彼女はいつになく饒舌で、うんざりしたような言葉とは裏腹に、何かに高揚しているようだった。
最後にはこう言ってあっさりと背を向けて去って行った。
「じゃあね、カシオス。あんたアイオリアに何言われたんだか知らないけど気にするんじゃないよ。あいつに会ったら言っときな、私と魔鈴は日本までの飛行時間、あいつの愚痴で潰すから」
星矢が粛清されることよりも、まだアイオリアの濡れ衣が晴れていないことの方にショックを受けたカシオスだったが、訂正する間も無かった。シャイナは行ってしまった。
独りになって数日、カシオスは考えた。
星矢は天馬座の聖衣を手に入れ、星に並んだはずだった。それがどうしてこんなことになっているのだろう。魔鈴がぶっ殺すという言葉はあまりにあっさりしすぎていて、ちっとも現実感が無い。ただ、かつて垣間見た恐ろしい女の迫力を思い出したときだけ、結構本当にやるのかもしれないと思えた。
星矢の死体は聖域に運ばれてくるのだろうか。
もしそうなったら、自分は平静にそれを埋められるだろうか。
カシオスはすっかり土になじんで埃っぽくなった両手を見た。握り拳を作ってみながら、少なくとも哀れと思うことは無いだろうと思った。
・・・髪の長い男の死体が運ばれてきたのは、それからさらに数日後のことである。
運んで来た人間はカシオスに命じた。
「・・・墓石に名を刻め。こいつは白銀聖闘士だ」
と。
男の死体は傷にまみれてどす黒かった。
墓石を刻む間にカシオスの指は震えだし、首からは嫌な臭いの汗が湧いてひっきりなしに滴り落ちるようになった。何もかも放り出すまでに時間はかからなかった。彼は走った。シャイナの家へ。
粗末な小屋はしんとして誰の気配も無かった。
幾日か、通った。
「カシオス。シャイナは戻ったか」
その人が訪ねてきたときの感情をカシオスは到底言葉に表すことができない。アイオリア、と叫んだ声はほとんど断末魔に近かった。
ぎょっとして駆け寄ろうとする男の前に身を投げ出す。もはや不安を押さえつけることができなくなっていたのだ。花のつぶれる青臭いにおいに体中を苛まれながら、カシオスは繰り返し叫び続けた。
「教えてくれ!教えてくれ!!頼む、アイオリア、教えてくれ!!」
白銀聖闘士の墓を刻んだ日から何度シャイナの家を訪ねただろう。朝に、昼に、夕に、端の崩れかけた家の戸を叩いては返事を待った。今日こそは帰っている、きっと昼には帰ってくる、夜ならば、朝ならば、きっと、きっと・・・・・
だが。
「帰ってこない・・・・あの人が帰ってこない!!」
「カシオス」
「アイオリア教えてくれ、あの人はどこにいるんだ?生きて・・・無事でいるのか?教えてくれお願いだ、俺にはわからない。何もわからない!何もわからない!!」
それは地獄のような日々だった。
彼は必死で知ろうとした。何が起きたのか、今何が起きているのか、そしてこれから一体何が起ころうとしているのか。シャイナの家に通う道すがら、目に入る者全てに声をかけ、跪き、教えてくれと懇願した。
だが、誰も彼に答えてはくれなかった。
通り過ぎる誰もが思っている。お前に話して何になる?ただの墓掘りの、あさましい土くれに過ぎないお前に?どうして星の話をしてやらなけりゃならないんだ?
そうだ、破れた耳にはっきり聞こえる。
覚えておけ、カシオス。この聖域の巡りの中に、お前の名なんか無いんだよ。
「頼む・・・・・!」
思い知った。負けてなお生きるということがどういうことなのか。
歪な体を気味の悪い花の上に這いつくばらせて、吐きたいほどみじめに乞いすがる、この姿をきっとアイオリアも蔑んでいる。だがそれがどうでも、もはや構っていられなかった。彼を逃せば二度と誰にも聞けはしまい。嘲られようと踏みつけられようと、齧りついてでも何かを聞きたい。シャイナの消息につながる、何かを。
ひきつれた喉にはもはや声もなかった。カシオスは虫のように丸まって、嗚咽をかみ殺していた。
「・・・・顔を上げろ、カシオス」
低い答えが返ってきたのはどれほど経ったころだろう。
「お前がそこまで卑屈になる理由は無いはずだ。顔を上げろ。上げろと言っている」
やにわに後ろ首を掴まれた。と思うや否や恐ろしい強さで引きずり起こされ、気がつけば眼前に怒りに燃えるアイオリアの瞳がこちらを睨みつけていた。
「師が帰ってこないくらいでぐずぐず泣くような弟子があるか。シャイナが死んだらお前も死ぬのか。聖闘士になれなければ負け犬に甘んじるのか。せめて男としての誇りは無いのかカシオス。シャイナが万一死んでいるのなら、遺された自分は生きて、何としても誇り高く生きて、せめて彼女の名を守ろうとは思わないのか、カシオス!」
すさまじい怒りだった。
カシオスは身じろぐことすらできなかった。
アイオリアはなお何かを怒鳴ろうとしたようだったが、寸前で思い直して言葉を呑み、ややあってから強いて押し殺した口調で言った。
「・・・・下衆をいちいち相手にするな。これで二度目だ。いい加減にしろ」
三度目があれば殺すことも辞さないと、言外に告げているようだった。
彼の手が離れると、震えのとまらないカシオスの足はとたんに巨躯に潰されてへたり込みそうになった。身の内の筋という筋に鞭をくれるようにしてなんとかこらえる。今は目を逸らすだけでも三度目だと怒鳴られそうだった。カシオスはアイオリアの顔を凝視したまましばらく冷や汗を流していた。
夕暮れの鳥の声が一つ、鋭く空を駆けて行った。
「・・・・俺はこれから青銅聖闘士を始末しに行く」
と、アイオリアが言った。
「見世物試合に興じていた奴らが、もはや見過ごせぬ暴虐の徒になり下がった。抹殺に向かった白銀聖闘士たちが十名ことごとく倒されたと聞く。シャイナのことは覚悟しておけ」
そして、去って行った。
――おまえは自分の体内に宇宙を感じた事があるか。
あれは星矢の言葉だった。
聖衣を賭けた最期の闘いの場だった。聖域の空は白く高く、どこかで遠雷が鳴る音がしていた。
深いマスクに顔を沈めた教皇が、勝者には聖衣を与えると言い、天馬座のパンドラボックスが静かな光を放って高みに据えられていた。
――カシオス、もう一度いう。おまえの負けだ、ここから消えろ!
削られた耳が痛い。頭の中がひどく混乱していた。なんだ?何が起こったんだ?
茫然と映る闘技場の景色の中で、小さな星矢の体が13の星の軌跡を描くのが見えた。不思議な仕種だった。
――危ない!星矢に近づくなカシオス!
シャイナの警告は間に合わなかった。無数の流星に打たれてカシオスの体はふっとび、ゆっくりと弧を描いて落ちた。白い空と固い土・・・二つを結ぶように飛んだ鮮血が自分のものだとはにわかに信じられなかった。
教皇の声がする。勝者の名を告げている。女神は星矢を新たなる聖闘士とみとめた。ここに聖闘士の証である聖衣を授ける、と。
馬鹿な。カシオスは叫ぶ。
俺はまだ負けていない。立ち上がらなくては。早く立ち上がって、あいつを倒さなくては。
――本当に馬鹿だね、お前は。
・・・ここはどこだ?見回せば小さな部屋だった。石の寝台の粗末な布団の上に寝かされていた。頭が痛い。割れるように。
聖衣はどこだ?どこにある?
――聖衣なんかないよ、お前はもう負けたんだ。
傍らにシャイナがいた。彼女の声には何の感情も無く、まるでしゃべったのが彼女自身ではなくて、顔に張り付いている仮面の方だとすら思えるような平坦さだった。
冷たく光る銀の面。
その顎の先についと黒い色が見えた。それは少しずつ大きく膨らんで雫の形になり、ぽたんと落ちる。
――お前のせいだよカシオス。
シャイナの指が仮面の縁にもぐった。
――お前が負けたからだよ。だから私が死ななきゃならなかったんだ。お前が星矢を殺してくれてりゃ、私も生きてられたのにさ。
銀色が落ちる。音は聞こえなかった。静寂の中で、真っ黒に濡れた顔が、恨みを込めてカシオスを見ていた。
・・・・・・・自分の絶叫で、目が覚めた。
視界を塗りつぶす黒を必死に振り払おうともがいて、それが夜なのだと知った。・・・・ああ、墓地だ。いつもの、カシオスの棲家だった。墓石の一つにもたれて、彼は眠っていたのだ。
動悸がひどい。口の中が乾いて、舌が震えている。悪夢の名残は早い鼓動とともにしばらく体中を駆け巡った。カシオスは背を丸めて胃液を吐いた。
アイオリアが去ってから二日、同じ夢を見ていた。自分が負けて、シャイナが死んで。そうして言われる、お前のせいだと。
・・・・・「覚悟をしておけ」とアイオリアは言った。
だが覚悟とは一体なんなのだろう。どうすればそれができるのか。シャイナが死んだと思っておけばいいのか。しかし今はそうするだけで十分気が狂いそうになるのだ。
出立の日の彼女を思い出す。白銀の衣装を纏って、髪に飾りをつけて、それこそ星のように輝いていた、美しい人。
もう帰ってはこないのか?星矢が、彼女を殺したのか?
カシオスは唸り声をあげて手近の墓石を殴りつけた。何の罪もない墓にもそうせずにはいられぬ憎悪が、彼の中に満ちていた。
星矢。
星矢め。
辛さから目を背け、卑屈が蓋をしていたせいで、これまで言葉にならずにいた憎しみがある。
聖衣を奪われた時から・・・・いやもっとずっと前、手合わせのために彼に再会した時から、カシオスは星矢が憎かった。
同じ聖域の中で、恐ろしい女の下で、過酷な修行に明け暮れているはずの自分と同じ子供。それなのに彼は何も変わらない。自分はこんなに醜く変わったのに、あいつはきれいな子供のままでいる。
どうして憎まずにいられよう。彼は何も失わずに全てを奪っていったのだ。聖衣も、栄誉も・・・そして今、シャイナの命までも、全て。
墓地の中に咆哮が響く。湿った空気が怨嗟の声をさらに重たく不気味に伝えていく。
殺してやりたい。あいつを殺してやりたい。
カシオスは無念さに転がりまわる。
もはや仇討はかなうまい。アイオリアが青銅聖闘士を始末すると言ったなら、それは必ず成し遂げられるだろう。星矢が逃れる術は無い。
だがせめて、と思うのだ。せめてあいつの死を汚してやろう、と。
聖闘士として死体が持ち帰られたなら、ずたずたに引き裂きこの薄汚い花に喰らわせて、何もかもを汚してやろう。死様で生きた価値が決まるなら、これ以上にないほど辱めて、下衆にも足りない塵のごとくにしてやろう。
暗い決意はわずかながらカシオスを慰めた。
・・・・・彼は知らなかった。
未来は、自分が思うよりも希望があるのだということ。その希望の中で、多くの人が息づいているのだということ。
ただ、自分だけがそこから弾かれているのだということを。
シャイナが戻った。
まるで奇跡のようだった。
その日、カシオスは滑稽なほどかすかな望みにすがりながら飽かず彼女の家を訪ねるところだった。辿り着く手前で彼は見た。黄金の聖衣に身を包んだアイオリアと、その両腕に抱えられたシャイナの姿を。
「シャイナさん!」
仮面の無い白い顔は、ほとんど死んでいるようにさえ見えた。細く下に落ちる手足にも力がない。
だが、アイオリアは静かに言った。
「・・・・背をやられている。傷の手当てを頼む」
手当を。
ならば、生きているのだ。
カシオスは目がくらむ思いでその場にへたり込んだ。
「おい、しっかりしろ。お前がふぬけてどうする」
アイオリアがあきれている。
カシオスは自分でもよくわからない声で返事をして、もう一度へろへろと立ち上がった。
ふと見ると、男はなぜか、ひどく疲れたような顔をしていた。
「シャイナは任せる。俺はこれからせねばならんことがある。・・・・カシオス。夜になるまで俺が戻らなかったら、お前はシャイナをつれてここから逃げろ」
・・・・・・・・・・
・・・・・・・今、何と言ったのだ?逃げろ?
「それは、どういう・・・」
「そのままの意味だ。とにかく、シャイナを受け取れ」
ほとんど無理やり押しつけるようにして、アイオリアは彼女をカシオスの腕に預けた。
・・・・おかしい。
男の眼が、底に異様な光を隠している。
疲れているのではない。あまりに激しすぎる何かを抑えているせいで表情が動けないのだと、カシオスは気付いた。
「・・・・ではな」
アイオリアは呟くように言って踵を返した。聖衣の弾く金の光が地面にせわしなく動き、ふと止まった。
「・・・・そうだ。お前は、俺を殴っておくか?」
「・・・・・は?」
「シャイナのその傷は、俺がやった」
「!!?」
「俺が星矢を殺そうとしたところへ飛び込んできたのだ。あいつを庇って俺の拳をまともに受けた」
カシオスの頭がぐるぐるとかき回されていく。
何を言っているのか、意味がわからない。
わからない・・・・
「星矢は・・・青銅聖闘士たちはいずれ聖域にまで来るだろう。真のアテナの聖闘士が、真の反逆者を倒すためにな。だが、俺もそれまで大人しくしているつもりはない。・・・どうする、カシオス。ここで殺されてやるわけにはいかんが、師の借りを返すなら今だぞ。二度と機会は無いかもしれん。・・・星矢は俺を一発殴った」
振り返らずに淡々と言うアイオリアは、おそらく本当に殴られるつもりでいるのだろう。少し落ちた肩からも、両脇に下げた腕からも、身構えのようなものは一切感じられない。
熱い風が通りぬけて白いマントを揺らしている。黄金聖衣が反射して、地に落ちた影さえ輝いている。
遠い、とカシオスは思った。あまりに遠くて、手が届かない。
いつか並んで墓を掘り、土にまみれたあのアイオリアと同じ人だとは思えなかった。
彼は一体どこへ行こうとしているのか。なぜこんなに、遠く感じるのか。
カシオスは言った。
「・・・アイオリア。俺は、お前の墓を作るのは、嫌だ」
長い、静寂があった。
そして。
「・・・・お前は命を無駄にするなよ、カシオス」
それが最後の言葉だった。
シャイナの傷は一目見てわかるほど重いものだった。黒く腫れあがった背を見たとき、カシオスの脳裏にはいつか埋めた白銀聖闘士の死体がよぎった。
闘いの傷。彼女は、闘ったのだ。
カシオスは、これまで自分が受けた乏しい手当ての記憶を必死に思い返した。彼女の傷を洗って布をあて、寝台に寝かせる。乾く唇に水を差し、ひどい汗をぬぐう。
たくさんの人を殺し、死者の埋葬ばかりしてきたカシオスは、生まれて初めて人の生を願って働いた。今にも吹き消されてしまいそうなか細い命の前でそれを行うことは、人を殺すよりも恐ろしいことのように思われた。
一度だけ、シャイナはぼんやりと瞼をあけた。
「・・・・・・・う・・・・」
「シャイナさん!気がつきましたか?シャイナさん」
焦点の定まらない瞳だったが、長いまつげに縁取られて美しく澄んでいた。カシオスはそんな場合ではないのに、見惚れずにはいられなかった。
小さな唇が何かをつぶやいている。
「・・・・・・・・や・・・・」
うわ言だろうか。ためらいながら少し耳を寄せた。
「・・・・・せいや・・・・・」
星矢、と彼女は言っていた。
カシオスが言葉を失っている間に、その瞼は再びおりた。部屋に静けさが戻った。
窓の外で夕闇が濃くなっていく・・・・・
・・・戸口に人の気配を感じたのは、シャイナの額の布を何度目に取り換えたときだったろうか。
「!」
振り返ればちらりと、黄金の色が灯りを弾いたのが見えた。
カシオスは表に飛び出した。
「アイオリア!」
夜の中に立っていたのは、しかし、アイオリアではなかった。
線の細い男。
長い金の髪をおろして、浮かぶような白い肌をした男だった。盲目なのだろうか、両の瞼が閉じたままぴくりとも動かない。
男が黄金聖衣さえまとっていなければ、どこを取ってもこんな荒々しい場所にいるような人間には思えなかった。
カシオスが予想外のあまりに虚をつかれて立ち尽くしていると、その男は、アイオリア?と高い声で言った。
「あの男を待っているなら無意味だぞ。あれはもう帰って来ない」
この、声。
絶対的で、尊大で、どこにも慈悲を見いだせない声。
喉が瞬時に干上がった。男のまとった黄金聖衣はあたかもアイオリアのそれと同じように美しく輝いていたが、その星の下のきらめきに底知れない冷たさがあるのにカシオスは気付いた。
何かとてつもない恐怖が目の前にいるのだと直感した。
「・・・・・誰だ、お前は」
「私かね?自分では名乗りもせずに聞くのかね。まあいい、私は乙女座のシャカ。礼儀知らずの君の名を聞いておこう。名乗れ」
バシッ、と空気がひび割れるような音がした。
カシオスの膝が一瞬にして痺れた。彼は地面にくずおれ、何が起きたのかわからなかった。
ふり仰げば男の顔が澄ましてこちらに向いている。
「跪いてもらったまでだ。そう驚くことでもあるまい」
「あ・・・・あ・・・・」
「さあ名乗れ。青銅のヒヨコどもに加担した愚かな裏切り者とは君かね?」
「・・・・!」
「・・・・どうも、大した小宇宙も感じぬな。君ではないのだろう。時間の無駄だ、裏切り者は家の中かね」
「ま、まて!」
「?」
「お、俺だ。俺がその、裏切り者だ」
横をすりぬけて家に入ろうとする男を、カシオスは嘘で制した。
この男が何をしにきたのか、それを悟った瞬間に滝のような汗が流れおちた。シャイナに会わせるわけにはいかない。決して、絶対に。
男はカシオスを振り返って立ち止った。閉じた眼で何が見えるのかわからないが、ただ、薄く笑った。
「!!」
刹那、舌に走った激痛はとてつもないものだった。口を押さえて絶叫するカシオスに、男は言った。
「嘘をつくと舌を抜かれるのだよ。覚えておきたまえ」
何を、したのか。影一つ動いたようには見えなかったのに。
焦りながら口の中に指を突っ込むと、舌はまだそこにあった。しかし、膝同様に、感覚は完全に失われていた。
お前を殺すことなぞ造作もないと示しているのだ。
カシオスはうめきながら必死に這いずって男の前に回る。一つだけ、相手が勘違いしていることがあった。こっちは自分の命のことなど惜しくもない。今はシャイナが、彼女の命だけが大切なのだ。
動かぬ舌で必死に繰り返した。俺が裏切り者だ、と。
男が呟いた。
「・・・なるほど。あの馬鹿者が気に入りそうな者ではあるな」
「お、おえ、おえが・・・・うあ・・・」
「やめたまえ。その舌は当分もとには戻らん。無理に嘘をつく必要はあるまい」
「おえ・・・おえが・・・・」
「大人しく待つことができんのかね。・・・できんのか。そうか」
男は少し考えた。
そして言った。
「ならば、暇つぶしに良い物を見せてやろう」
カシオスは細い指先がこちらに向けられ、眼の前で軽く、空をはじくような仕種をするのを見た。
真っ白な光が。圧倒的な光が。
彼の脳を塗りつぶした。
・・・・・シャカが再び出てきた時、カシオスはまだその場に倒れ伏したまま瞬き一つできぬ有様だった。
来訪者は彼を一瞥し、面白くもないという口調で言った。
「・・・あんな死に損ないの女をわざわざ手に掛ける必要は無い。放っておいても死ぬだろうと、伝えておく」
伝える相手が誰なのか、真の悪とは何なのか、カシオスにはもうわかっていた。
彼は見たのだ。
何もかもを、見せられたのだ。
男が去ってからしばらくして、両目にふつふつと涙が湧いた。頬を流れてそのまま土に吸いこまれていく涙は、長く、止まることが無かった。
「カシオス・・・この数日間、徹夜で私の看病をしてくれたらしいね。ありがとうよ」
その日は良い天気だった。
シャイナは一命を取り留めた。伏していた間のことを、彼女は何一つ覚えてはいないようだった。
「ところで聖域内がやけにざわついているけど、なにかあったのかい?」
カシオスは不思議と平静な気持でいることができた。その問いを、シャイナが目覚めるまでは一番に恐れていた。できることなら、報せたくなかった。
だが、彼女はきっと気づくのだろうと、そんな気がしていた。
「・・・星矢達が十二宮を突破しようとしてるようです」
朝に、彼らは聖域についたという。アイオリアが予見した通り、青銅聖闘士たちはこの地へやってきた。
聖域の雑兵たちがそこかしこで声高に噂をしている。女神を騙る娘。黄金の矢。教皇の力。火時計には青い鬼火が灯り、既に4つまでが消えていた。
シャイナが焦りもあらわに身をひねって寝台から足を下ろした。
「せ・・・星矢たちが・・・?星矢たちがこの聖域にまで乗り込んできたって・・・。カシオス、それで状況は?」
「はい。先頭の星矢がアイオリアの獅子宮にたどり着いた頃かと・・・」
不思議なものだ。見ているわけでもないのに、カシオスにはわかる。遠くで、闘っている星矢の気配を感じる。自分の中の未練がまだ、天馬座の聖衣を追いかけているのだろうか。
シャイナはほっと息をついた。
「アイオリアの宮へ・・・な、ならひとまずは安心だね。アイオリアは教皇の悪事を知り、アテナに忠誠を誓ったんだ。星矢たちにとっては味方だものね・・・」
カシオスは跪いたままシャイナを見上げる。彼女の顔には仮面が戻っている。それでもわかる。
――星矢・・・・・
熱にうなされながら、シャイナは何度もうわ言に彼の名を呼んだ。アイオリアの拳の前に身を投げ出し、星矢を庇って、危うく死ぬほどの傷を負って。
――誰だって、死ぬなら大切なもののために死にたいと願うだろう。
アイオリアの言葉を覚えている。そうだ、誰だってそうなのだ。今ならわかる。死ぬなら大切なもののために。
シャイナは、星矢のために死のうとした。
仮面で顔を蔽っても、思いは隠れようもない。心配をぬぐおうと自分に言い聞かせている彼女は、星矢のためならどんなことでもするのだろう。
床に跪き、その人を仰ぎながら、カシオスは自分の中の憎しみが溶けていくのを感じた。
星矢が憎かった。同じ子供として生まれ、同じ場所にいながら、崩れることなく星に並んだ星矢が、とても、とても憎かった。
けれど、そんな憎しみよりもずっと、大きな憧れがあったのだ。
憎しみに蓋をしていたのは辛さから眼を背けていたせいではなかった。そばにずっと大切な人がいて、その人が星矢を憎んでいなかったからだ。
その人が星矢を愛してさえいたからだ。
大切な人を傷つけたくないとしたら、その人の愛する者を憎むことなど決してできないのだ。
カシオスは悟った。この真実が、ずっと自分を支えてきたのだということを。
墓場を転げ回り、星矢の死を汚そうとした苛烈な心を遠い悪夢のように思い出す。あの時、自分はきっと、かつてないほど醜い生き物になり下がっていた。憎しみのあまり、その憎しみを投げつける理由を求めて、自分はシャイナの死さえ願ったのではなかったか。心のどこかで、そんなことを肯定していたのではなかったか。
だがシャイナは生きて帰ってきた。そしてそれこそが、崩れていく自分を、もう一度引き戻してくれた事だった。彼女を必死で看病している間に、カシオスは初めて人の生を願い、人に戻れたのだ。
生きて欲しい。
あの時生まれた思いは二度と褪せることはないだろう。
この人に、生きて幸せになって欲しい。
カシオスは顔を伏せた。心臓が、静かに、脈を打つ。
「さあどうですか・・・」
自分の声が自分のものではないようだ。
「今のアイオリアは昔のアイオリアではありません。アイオリアは教皇の幻朧魔皇拳におかされているのですよ」
カシオスは語った。
あの日。乙女座のシャカと名乗る男が現れたあの夜に、見せられた。
教皇の間に乗り込み、悪を糾弾して闘ったアイオリア。その場にあらわれたもう一人の黄金聖闘士。ぶつかり合う力と力。
そして悪を露呈し、彼をその魔拳にかけた教皇の姿・・・・・
アイオリアの服従の声は血を吐くかのようにかすれていた。
あれは敗れたというのだろうか。いいや、そんなものよりなお惨い。
――結局、人間は死に際が大事だということだ。
幻朧魔皇拳は死ぬことすらも許さぬ魔拳だった。
相手の脳を操り、人を走狗と変え、そして誰かの死を見るまで解かれない。
教皇は笑っていた。きっとその死体は青銅聖闘士のだれかなのだろう、と言って、暗いマスクの奥で愉悦を浮かべていた。
正気に返ったアイオリアの慟哭が、今からでも聞こえるようだ。
――俺が戻らなかったら、お前はシャイナをつれてここから逃げろ。
死ぬ気でいたのだ。それなのに。
あの男にとって、どれほど辛いことだろう。
カシオスは首を振った。いいや、自分のような者が、彼の心境を推し量ることなどできはしない。
自分は、自分にできることをするしかないのだ。
「・・・・だから、アイオリアは、おそらく・・・・星矢の死を見ることになるのです」
伝え終えたときの沈黙は一瞬だった。
シャイナが寝台を蹴立てて戸口へと駆けた。
「シャイナさん!そんな体でどこへ!?」
聞かずともわかっているのになぜ聞いたのだろう。
「とめるなカシオス!獅子宮に決まっているだろう!」
ああそうだ。決まっている。決まっているのに聞いたのは、まだ自分に卑怯があるからなのだ。
カシオスは言った。震える声で。
「・・・・シャイナさんがその気でしたらば、このカシオスにも考えがあります」
「・・・なに?」
振り向いたシャイナには、何の身構えもなかった。
彼女はただの無防備な女に過ぎず、それは腹に拳を受けて崩れ落ちる時までそうだった。
カシオスは彼女をそっと寝台に横たえ、家を出た。
振り向きかけて、結局やめた。
最後に自分の名を呼んだシャイナの声を、大切に抱いていたかった。
聖域は夕焼けの色に染まっていた。十二宮へ続く石段の影も長い。
東の空には気の早い星も瞬いている。じきにもっと、数え切れぬほど現れるだろう。
――天馬の聖衣、俺に取れるでしょうか。
昔、自分が言った言葉が、石段の片隅に落ちているような気がした。欲しかった、と、懐かしむように思う。
どれだけ憧れても手が届かなかったけれど、星の一つに、自分もなりたかった。そんな夢を、一度でも見ることができた。
――シャイナさん、やらせてください。俺、星矢を倒します。必ず勝ちます。
ああ、この言葉も落ちている。夕暮れに染まる土の上に。
傍らにはアイオリアの笑った顔がのぞいている。
・・・お前もギリシアの生まれだそうだな。俺としては、同郷の後輩が聖衣を守ってくれたら嬉しいが。
お前も、と言ったのだ。自分の後輩だと、楽しそうに言ってくれたのだ。誰かに憧れ、その人のようになりたいと願う。そんな夢も、見ることができた。
――・・・・聖衣は。俺の、聖衣は。
横たわってもがく自分の姿だ。砕けた夢に埋もれて、死にかけている。
だが、その光景に痛みを見ることはなかった。
・・・カシオス、悪かったね・・・・あんたに、聖衣を取らせてやれなかった。
傍らにシャイナの言葉が寄り添っている。痛みを共に引き受けて、彼女は決してカシオスを責めなかった。
――!!!!
声にならない咆哮は、シャイナの中傷を聞いた日のものだ。
駆けつけてくるアイオリア。懸命に人をかきわけてくるシャイナ。
漠然と心に決めたのは、きっと眼を逆立てて怒鳴る二人を見たあの時だったのだろう。
自分はこの人たちのために何にでもなろう。どんなことでもしよう、と。
石段は長く、その一つ一つに言葉は落ちている。たわいのないものもあり、泣きだしたいほど懐かしいものもある。
――ふざけるんじゃないよ、帰ってきな!!
――顔を上げろ、カシオス。
――お前は命を無駄にするなよ。
――徹夜で私の看病をしてくれたらしいね。ありがとうよ。
帰る場所があった。叱咤してくれる人がいた。この命を案じてもらえ、大切な人からありがとうと言われた。
これ以上、何を望む必要があるだろう。もしあるとしたら、せめて受けたものを返したい、それだけのことだ。
カシオスは自分の手を眺める。ふしくれだって、土の色に染まっている。醜い手だ。だが力は強い。それで、十分だ。
ようやく今、憧れを置いていくことができると思った。
自分はどうしたって、とるにたりぬ、土の人間に過ぎなかった。このまま取るに足りないものとして、死んでいく。
だがそうして、土のまま消えていければ、きっとあの人たちは悲しまないで済むだろう。
すぐに忘れてしまって欲しい。傷つかないでいてほしい。生きて幸せになってほしい。思いは褪せることはない。
土で良かった。それがきっと叶うのだから、土で良かったのだ。
石段の向こうに獅子宮が見えた。
カシオスは来た道を振り返ってみた。遠く、遠く、彼方まで、夕焼けに染まる聖域が広がっている。
大地は沈む間際の光を受けて、天に向けた瞬きに覆われていた。
そんな降るような星空を、いつかどこかで、見たような気がした。